人・時・処

本多碩峯

法を食べる僧
お金が追いかけて来る 片道料金より往復料金が安い Mr.Brennerの洒落 有森裕子さんに思う 鑑人和上に対面する 同時多発テロ事件にマスメディアで遭遇した一人の真言僧として
いい加減ですよ 作家・フォレステルさんに聞く 幼児心になろう 現象界は素晴らしい お茶どころの製造メーカーの主人に聞く 小さな巨人 清水選手の心のマンダラ
パラリンピック長野大会で学んだこと 乃木将軍と片目の捕虜犬 悪評を恐れる者 南紀熊野風景画展で優秀賞受賞 臨界事故に思う 本当のとは何だろう(1) 本当のとは何だろう
(2)

法を食べる僧

東寺の食堂

「食」人を良くする堂


 北大門を入ると、すぐ「食堂」がある。食堂と書いてジキドウと読み、本来は僧侶が集まって一緒に食事をとったところという説がある。しかしその真意は定かでない。
 東寺の僧侶は、このように食堂を解釈する。

 僧の食事ってものは、仏法を食べることなんやね。ご飯を食べることとは違うんですよ。あそこに、鍋や釜がありますか。食事をするというと、すぐ、ごはんを食べると想像するけど、僧の食事は仏法なんですよ。千手観音像の前で僧たちが一緒に食事をとるなんて、僕には想像つかんことやけど、ね。僧たちがね、仏さんの前で食べるんじゃろうか。仏像祀っとる前で、仏さんの前で僧がすることは、読経する事でしょう。千手観音を本尊として聖僧文殊を主尊として、それが僧の身を養い、命を保つことなんや。この、身を養い、命を保つという解釈が、食事にたとえられてると違うのかな。
 命を養い、身を保つものを食(ジキ)というわけでしょう。その食に触れることによって、命を養い、身を保っているんですよ。ごはんだって食べることなんか人間人間できないですよ。口ちん中入れて、体の中をすぎているだけでね。触れてただけでね。それを我がものにできますか。その食のご縁によって命を養い、身を保っているわけやから。僕は、そうとしか、よう解釈せんけどね。

食堂は1930年(昭和5年)に火災にあい、現在の建物は焼け残った木材を利用して再建されたものである。その火災で、「千手観音像」は大破し、3メートルを越える日本最大の「四天王像」4体は焼けごげてしまった。千手観音像、四天王像、聖僧文殊像は、ともに800年代に作られたものといわれ、千手観音像は修復され宝物館に安置されている。炭化が激しい四天王像4体は、長いこと金堂の片隅に人々の目に触れることなく、ひっそりとたたずんでいた。
 しかし、創建1200年を迎える節目にと、1994年(平成6年)から特殊な樹脂により固める作業が続けられている。
 聖僧文殊像は、食堂が焼失する以前に移されていたため焼失を免れ、現在はやはり宝物館に安置されている。この聖僧文殊像は「3人よれば文殊の知恵」といわれるように知恵の仏として有名であり、一般に菩薩の形をしているが老僧の姿をしているため聖僧文殊像といわれている。
 そもそも大乗仏教の寺の食堂には、主尊として聖僧文殊像が安置されている場合が多いといわれる。「東寺文庫」弘法さんの玉手箱より

 仏教では、私たちの食事を神聖な儀式としてとらえ、又仏さまへの食事のお供えを毎朝先ず、はじめの大切な行事です。私のような修行僧にとって、1年365日の毎朝のお供えは最も大切であり、一切の幸せを祝福、祈願する行事であります。「食」とは人を良くすると解釈できる考え,僧侶にとって食堂は「仏法を食する堂」であると学びたい。


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お金が追いかけてくる


平成9年6月27日午後5時の出来事です。
 阪和道・堺料金所を出て美原南出口までの高速道路上の事です。 
 堺料金所で5千円でお釣りを4千6百円を受け取り、大型トラックにあおられる格好で急ぐままに底の深い胸ポケットに釣り銭を突っ込みスタートした。100Km/hのスピードで走り、約1Km程走ったところで胸ポケットの釣り銭の紙幣が「バシー」という音と共に一瞬に飛び出し、遠く彼方の後方に飛んでしまった。 二度と合えないとあきらめ2Km程走行したところに、非常電話ボックスとその避難所があり、入る。
 気持ちを落ち着かせ、間違いの反省をしながら、「無一物、無尽蔵」とか・・・思いが、今日の会の参加費をどうしよう「借りたくない」しかし、もし引き返したら、「心の借り」は計り知れない大きさだ、このまま出席しようと決意し、愛妻弁当のおにぎりを食べることにする。  不思議ではないか目の前にバサーと紙切れが飛んできて、よく見ると千円札ではないか。少なくとも1Kmも前のこと、しかも自分より遠く後ろへ飛んでいったはず。  もしかしたらと高速道路の後方を眺めると、何か紙切れが車のスピードに連れて高く飛びながら飛んでくる。自分の前で通り過ぎずバサーと止まってくれるかどうか。一心に「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」と唱える。それが何と5分間隔に飛んでくるわ、合計4枚、4千円がすべて飛んできて、しかも私の前で、バシーと止まるではないか。「仏様ありがとうございます・ありがとうございます」と素直に手を合わせ合掌しました。
 お陰で素晴らしい『マンダラ・パーラー』に参加出来ました事に衷心より感謝申し上げます。 
 こんな不思議なことあるのですね。
当日の会合名:『第5回マンダラ・パーラー』  
          既存の宗派を超越(万教帰一)した勉強会
出席僧侶宗派:真言宗・禅宗・浄土真宗・無宗派
  一般参加者:僧侶及び一般在家信者
場       所:大阪府南河内郡太子町の叡福寺(聖徳太子御廟)

バイク:カワサキ・ZR400C


片道料金より往復料金が安い


1983年6月頃アメリカボストンの空港での出来事。
 ビジネスで(ベンチャー企業のあるロボットの会社等の見学)単身旅行に出発し、オハイオ州の弟宅を
基点に数社を訪問の後、帰国の準備をしニューヨークからボストンに行き、ビジネスを済まし、帰国のためボストンの空港で、ケネディー空港までのチケットを購入のためにローカル線のカウンターに行き、ニューヨーク迄のチケットを下さいと言った。
 カウンター嬢(?)が「往復ですね」と言葉が返ってきた。「one way] と返事をしたところ、「往復が片道より安いですよ」とにこにこしながら話しかけてきました。日本の常識では往復チケットは安いと言っても片道より安くない事実、しかも私は日本に帰り、次回何時ボストンにくるか解らない事、英会話が十分でない私、頭から「片道チケット」と決めて、気がついたら・・・後ろに大勢の外人が並んでいる事に気づき、すぐ後ろのナイスアメリカンが笑顔で「書いて上げなさい」とアドバイスをされたので、カウンター嬢(?)が笑顔で金額を片道料金と往復料金を書いて私に見せてくれましたのです。
 本当に驚きました。「必要なければ必要な友人に上げて下さい」と説明を受け、機内の人となったのですが、先ほどのナイスアメリカンと相席にし(指定席無し)楽しい旅となりました。
 彼の話によると、アメリカは航空会社の競争が厳しく、小さい会社は従業員を少なく、特に安全に関係が少ない営業関係、宣伝を非常に予算を少なく、常に往復のチケットを販売し、経営の安定を図っているとか。常に定員満杯の運行を目標に経営されている事を教えられ、当時の私はアメリカの凄さ、アメリカンの創造性に感動したのです。
 
 後々弟に話したところ、アメリカの数量に対する価格と日本の数量に対する価格と異なっていると説明を受けた。
 即ち、簡単に言えば、果物屋にある客がリンゴを一個買いにきたその価格を100円と仮にしよう、
別の方がリンゴを五個買いにきましたその価格が90円である。実際はどうか解りませんが、原価の構成がそうなのですね。一個の客は次に買いにきても多分一個が多いが五個の客は次回買いに来たときは進物に5Kg箱、より多くのリンゴを買う確率が高いと判断。
 日本なら、一個だから安くしよう!市場なら一個なら差し上げましょう!と言うことになる場合だってある。だから、価格決定の原価構成が日本と、アメリカとでは心の違いを感じまね。


Mr.Brennerの洒落(シャレ)


10数年程前の出来事。

 オハイオ州クリーブランド市の米国一、二の農耕用大型トラックターの整備士養成学校のオーナーでいらっしゃる、ブレンナーさんが日本の久保田鉄工(株)(現・株式会社クボタ)を見学したいからアポイントをとってほしいとの連絡が入り早速、了解を得まして、婦人を伴って来日され、当時伊丹空港に降り立ち簡単な挨拶を交わし、私の自家用車まで沢山の手荷物を運ぶことになりまして・・・・ホンダさん、あなたはこれを持って下さいと特に指定されました。何気なく大きなトランクを下げますと異常に重いのにビックリしまして、手荷物は一つだけにしました。
 ブレンナーさん老夫婦は私の姿を見て面白そうにニコニコされているのです。何となく私もニコニコと笑顔でお返ししました。
  翌日ホテルへお迎えに伺い、いよいよクボタの堺工場へ出発するのですが、昨日の重いトランクを今日はホンダさんこれを持って下さいとニコニコしながら命令するのです。
 軽そうな雰囲気で(実は重い)クボタを訪問しまして広い工場を親切に案内され大変喜ばれました。
 最後に応接間に戻り、例のトランクを取り中から簡単なお土産を皆さんに差し上げてホテルに帰りました。ホテルで夕食をさせて戴きいよいよお別れの時が来ました。
 Mr.Brennerが私にニコニコしながらこのトランクはあなたの物です。家に帰って中を開けて下さい。
この時、穏和なブレンナーのお顔を見るなり大変な感激を致しました。
 祖国のドイツ製で椅子代わりになる丈夫な家宝だと説明、頂戴致しました。
 中身はお土産で奥さんが選んだと思われるワイフへの数々のプレゼントでした。


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有森裕子さんに思う


最高の夢 いつまでも  42・195キロはとても、短く感じた.ゴールした時は、

半分しか手があがらなかった。

これで終わったんだと思った。

一番初めに、アトランタの青空を見上げた。大好きな太陽があった。

サラサラとした陽光が暖かかった。

一本でもしっかり咲くヒマワリの花が好き。

太陽に向かって走る自分を、その花にだぶらせて勇気づけてきたからです。
 
ゴールして、スタジアムを一周したのは、ゆっくり歩いてお礼がいいたかったから。

オリンピックと、拍手と声援を頂いた観客に対してです。

そして、自分自身に……。沿道で「がんばれー」と、日の丸を振ってくれた人が何人もいた。

「走れるって いいなあ」と思った。

オリンピックは、私の人生にとって「最高の夢の場所」です。

マラソンの前夜は、全く眠れなかった。

早朝のスタートに備えて午後六時には寝るようにしたけど、いろんなことが頭をよぎった。

バルセロナのこと、自分の走る姿、恋も失恋もなんでも相談した母のこと。

でも、眠れない焦りはなかった。

羊を数えるかわりに、四年間を思った。

徹夜だったが、翌朝は、体も心もすごくスッキリして、 スタートラインに立てた。

「咲かせてみせます金の花」。

そう母に約束して、走ったバルセロナの銀メダルは、 心の底からうれしかった。

「やった」と思った。

でも、私はぐれてしまった。

表彰台にあがってみても、何も見えない。

新しい希望に向かって、飛び立とうと思っても、翼がない。

銀メダルが輝いていないのに気づいた。

「どうして」。

疑問が膨らんでいった。

虚脱感が広がった。

社会のしがらみ、人間関係……。口にできない原因はいろいろある。

でも、逃げ出すわけにはいかなかった。

そして、足の痛み。手術はかけだった。

病院で見た、おばあちゃんが必死に歩こうと訓練する光景が、

わたしの背中をポーンと押した。

五輪は、不思議な箱だと思う。

夢や希望、感動、喜び、そして失望、挫折感がいっぱい詰まっている。

私は、それを一度に見てしまった。

そして、ぐれた。

もう一度、それぞれを箱にしまってから、アトランタを目指した。

金メダルは最高だけど、色にはこだわらなかった。

苦しかった四年間にふたをする意味でメダルを取りに行った。

メダルを取ることで、この四年間を永遠に閉じ込めようと思った。

だから、銅メダルは、私の中で、とても輝いている。

バルセロナの閉会式に、出られなかったのが悔しかった。

四年間、がんばれた力の中に「閉会式にもう一度出たい」という思いが、

十分の一ぐらいあった。

閉会式は選手のためにあると思う。

主役は選手なのだから、開会式より楽しめるから。

旗手になれたのは大変光栄です。

オリンピックは、いつまでも、夢のようないいものであってほしい。

世界で最高の場で、喜びを感じたり、楽しめたり、戦いのできる場所であって欲しい。

そう思います。

有森 裕子   (女子マラソン銅メダリスト=談):朝日新聞より

上記の談話を通して、あたたかい愛情で育ててくれた、おばあちゃんやお母さん、そして自分自身の何かに・・・・・、お金でもない、結婚でもない、学歴や、家柄や、財産や、役職や、名誉でない、人間の尊さ尊厳を守るという人間の価値への挑戦を感じるのであります。
 有森さんは日本の陸上界にプロ宣言を行うも、日本の関係団体が明確に認めておられないと聞く。
 これまで、日本のアマチュアスポーツ界は日本船団という船団に各選手は組み入れられているが、
もし有森さんが、明確にプロ宣言を認められた時点で、走る訓練以外に、各種契約事項、トレーナーの問題、コーチスタッフの問題、ことばの問題等、全世界を舞台に有森さんを中心として活躍が始まるのです。
 この問題は有森さん個人の問題としてでなく、人間尊厳への挑戦に理解する社会環境をめだして行くことが、私たちの反省のなかになければならないでしょう。
 そのような社会はなかなか直ぐには望めないかもしれないが、それを有森さんが自らスポーツウーマンのベンチャーとして、それに向かって努力されていることに感動いたします。
 仏の教えを灯として努力されているような気がします。
 有森さん、人類の歴史の歩みは驚くほどおそいということ。今もって人種差別があり、戦争があり、飢餓があり、挙悪犯罪があり、独裁者がある。
 しかし、ひとりひとりの創造が生かされるべく、未来に向かって明るく、一人一人の良心を信ずるように、人類の良心、世界の理想をめざしましょう!


鑑真和上に対面する


 十数年前、生長の家栄える会近畿ブロック大会が奈良市で開催され、プログラムに見学コースが組まれていた。
 私達夫婦は唐招提寺を見学することになり、何となく大勢の見学者の一員として参列し、唐招寺に着き、特別に管長さんのご案内でお部屋に通されました。今でも鮮明に思い浮かびます。 
 昼間でしたが、薄暗い部屋に電灯がパッと点灯されました管長から唐招提寺と最も深い関係の鑑真和上の歴史と人となりの説明はじめました。
 その時、驚きと、喜びの感動を受けました。その部屋のふすま絵並びに掛け軸絵は有名な日本画の東山魁夷画伯が描かれたそうですが、ふすま絵のテーマーは鑑真和上の生まれ故郷の古里(中国)を捨て理想の国「倭の国」をめだして、日本海の荒海で七十余たびの苦難にあい、盲(めし)いながら十二目に日本にたどりついた中国の高層であった。
  その絵は正に古里の竹林のゆらぎ、荒れ狂う日本海の荒波の音を観せてくれました(和上の観音様)。
 唐招提寺の開山、鑑真和上がそのひとである。正に千二百年後の今日鑑真和上とお会いした感動で、ありがたくてありがたくて涙が止まりませんでした。
 千二百年以上の昔といえば、東シナ海では、鯨の群れがまだ泳いでいたころのことだそうです。
鑑真和上は、来日後十年の天平宝字七年(763)、唐招提寺で苦難の多い七十六年の生涯を閉じ
唐招提寺では、その命日の六月六日真和上の像を開帳し、法要を行う。開山忌である

帰命頂礼(きみょうちょうらい)揚州の、
伝戒祖師能化(のうげ)の主、
仏の使いと世に出でて
毘奈耶蔵(びなやぞう)を説き給う

 法要は、和上をたたえる和讃で始まり、昔からのならわしにより、貴人にたいする最高の礼をもって執り行われる。今も鑑真和上は手厚くまつられている。

 貞享五年(1688)の青葉のころ、和上像と対面した松尾芭蕉は、次の句を残している。

若葉して御目の雫ぬぐはばや

それ以来、私の鑑真像は、年老いても、強い信念と美しい世界、将来に対する無限の希望、無限の可能性を信じて実行する素晴らしい人間像、自分の強く望んでいるもの、自分の強く欲しているものを追求してやまないという、不退転精神のかたまりみたいなものを描いておりましたが、自分が鑑真和上の年に近づきますと、鑑真和上は不退転の勇気を生涯持ち続けたのでなく、やはり一種の挫折感に晩年は異国の地でおおわれていたのではないか、と感じるようになりまして、一層の親近感を感じるこの頃です。
鑑真和上の功績:《鑑真和上の日本にもたらしたものは、いうまでもなく大きかった。和上が唐から持参したものは、『小止観』など天台大師の著作をはじめ、美術品・宝物・経典・医薬品など相当のものになる。
 和上一行の来日で、奈良後期の美術の様相は変わり、また医薬に通じ、相当量の薬品を日本にもたらした和上は、いつか医方の祖としてまつられるようになった。当時の朝廷は生前、その功に報いて、『大和上(だいわじょう)の尊号を贈った。』
 このように日本の文化史上大きな足跡を残した鑑真和上が、なぜ心の中では失意の晩年を送ったのか。そもそも和上はどうして日本にやって来たのだろうか。
 和上と日本との縁は、二人の留学僧、普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)に揚州で会った時に始まる。
 二人は日本に正式の戒律を伝える僧を十年間求め続けていた。日本国内では、当時、僧や尼になれば税が免除されたので、ろくにお経も読めない者まで争って寺に入り、あやしげな説を唱えては世人を惑わしていた。普照たちは、正直にこの日本国内のありさまを話し、「ご門下のかたに日本へ行くようおっしゃっていただきたい」と、戒律の師捜しの助けを請うた。
 鑑真は、落陽・長安で学を修め、その当時すでに中国中部の律僧の第一人者で、「授戒の大師」と仰がれていた。当然弟子も多い。さっそく鑑真は一座野で師にはかるが、誰も答えない。ややあって口を開いた者も、道中のむずかしさを言う。
 その時、鑑真は静かにこう言ったという。「これ法のためならば、何ぞ身命を推しまん。諸人ゆかずんば我則ちゆかんのみ」。和上みずから海を渡ろうというのである。
 一座の僧も心を揺すられ、二十一人の弟子が同行を申し出た。和上はこの時五十五歳、今なら定年になると言う年齢であった。
》日本史探訪より


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