人生は遍路なり
目 次
阿波は発心の道場 土佐は修行の道場
伊予は菩提の道場 讃岐は涅槃の道場
「虚空蔵求聞持の法」
・/A>ニ日本の佛教〓
連載1
「虚空蔵求聞持の法」
と日本の仏教

連載2
「虚空蔵求聞持の法」
と日本の仏教

連載3
発達心理学を通して、
発心・修業・菩提・涅槃の
仏教の教えを見る
彼岸(悟りの岸)は
どこにある?

弘法大師『空海』は
どのような修行をして
悟りを開かれたのか

〓 四国八十八ケ所と胎蔵界マンダラ〓
四国六番安楽寺貫主 : 畠田秀峰


 四国八十八ケ所は、お大師様が胎蔵界の曼陀羅をこの四国の地にお移しになるというご計画のもとにご開創されたと云われています。この胎蔵界の曼陀羅は、弘法大師の御教えのすべてを絵図にしたもの、もっと広く、二千年の東洋の知恵のすべてを絵図にしものといっても過言ではない広く深い意味を秘めた曼陀羅であります。
 この胎蔵界の曼陀羅は、上の方が東になります。下が西になり、右側は南で左側が北になります。中央の中台八葉院には、真ん中に胎蔵界の大日如来様が描かれておりまして、その真上、ですから東には、宝幢如来という仏が描かれている訳です。それで四国で東の国というと阿波(徳島)の国です。この阿波の国は、宝幢如来は発心という意味を持たれておりまして、それで、この阿波の国は「発心の道場」というわけです。そしてこの胎蔵界の曼陀羅は、右回りに東―宝幢如来―発心―阿波、南―開敷華王如来―修行―土佐、西―無量寿如来―菩提―伊予、北―天皷雷音如来―涅槃―讃岐と悟りへの道を四つの段階で示しております。


マンダラの詳細画面はここ(200KB)

阿波は発心の道場
 さて、それでは、阿波の国は、「発心」の道場です。この発心とは、どういう意味を持っているのでしょうか。お釈迦様は、「生、老、病、死」という四つの苦しみの坂道を登り切るために、釈迦族の王子という、恵まれた暮らしを捨てて、出家される訳です。これがまさに発心の原点です。遍路は、お釈迦様のように生涯出家の生活をするのではなく、世間の生活を一時停止して、(約五十日)、世俗の生活の中で自分が享受している地位、名誉、財産等と離れて、そまつな白衣を身にまとった一人の遍路となって、人間の、否、生きとし生けるものの、根源的な苦しみ「生、老、病、死」を解脱する道をさがすのです。ここでは、俗世間の精進努力でなく、脱俗の修行者としての精進努力がもとめられる。
 遍路は、十善戒、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語等云々を唱え、懺悔し、足に豆が出来ても、雨が降ろうと、寒かろうとが、暑かろうが、不平不満を言わず、報恩と感謝の気持ちを持って、旅をつづけることを「お大師様に誓う」わけです。この宝幢如来のお待ちになっている幢(はた)は、忍辱持戒の御幢(みはた)であるわけである。
 遍路は、この発心は、実は生命がけの発心です。今から千二百年前のお大師様の時代には、バスやタクシーなどの乗り物はありません。歩いて、約五十日の山坂難所の続く、苦しい長い旅のはじまりなのです。

土佐は修行の道場
 次に胎蔵界大日如来の右側、南です。南には開敷華王如来という仏が描かれています。この仏は「修行」という意味をもたれた仏なんです。ですから四国の南の国、土佐は修行の道場といわれています。
 さて、それでは、「修行」とは何を意味しているでしょうか。この「修行」の意味は、土佐の国に入るとすぐわかります。阿波の国の打ち止めの二十三番、日和佐の薬王寺それから土佐の国に入って、二十四番室戸岬の最御岬寺まで、私も重い荷物を背負って何度も歩きましたが、三日間かかります。一ケ寺に三日間かかるんです。阿波の国では、一番長い十一番藤井寺から十二番焼山寺までの山越えでも六時間から七時間です。土佐の国は、距離が長いんです。一番こたえるのは足の裏です。阿波の国で水膨れ、血豆ができているのですが、ここでは、足の裏の皮と肉が分かれてしまうんです。そして、一歩一歩が地獄の苦しみなんです。そして、荷物は肩に食い込んできます。ここで遍路は、人間の精進努力とか、忍辱持戒の誓いというものは、たかが知れているし、すぐこわれてしまうものである。ということを知ります。これからが、実は本当の「修行」なのです。ここで「修行」に入らずにあきらめて帰る人が多いのです。しかし、景色がいいんです。太平洋の海を左に見ながら、右側は青々とした山が茂って、土佐は自然の豊かな所です。ところが、自然が豊かなるが故に、遍路は景色を見るどこ ろでなくなるのです。私は、土佐への徒歩での遍路は何度も経験していますが、土佐の夏の海浜の暑さは、人間が歩く限度を超えていますし、また、冬の寒さは、太平洋からの風がさし込んで、それを受けて歩くことは、むつかしく、風を受ける顔の肌なんかは、真っ黒でだらだらになってしまうんです。とても、夜にはさむくて野宿などできません。
 それで、私は、夏に行った時には、あまりに暑いもんですから、もう昼は、木の下で昼寝するのです。それで、夜歩くんです。冬は夜寒くて寝られないので昼間、お日さんのあたるところで寝るんです。で夜歩くんです。歩いたら体が温かくなって来ます。それから雨がつづいた時には、恐れ入りました。ザーザーぶりの雨が一日や、三日でないのです。七日も十日も続くんです。もう、体も持ち物もみな、ビショヌレです。なにしろこの土佐の国は距離が長いんです。そして、人間は阿波の国で誓ったような、きれごと言うだけでは体が付いて行かないということをいやというほど知ります。阿波の国では、辛抱とか精進努力、報恩と感謝などと、きれいごとを言っているのですが、足裏の水膨れ破れたらいたくてガマンできないし、暑いのも、寒いのも、空腹も少々は辛抱できても、人間はとことん、来る日も来る日も、何日もガマンできものではない。土佐の「修行」を体験すると、自分はもう決してそんあことが言えるような人間じゃないこと、いうことを思い知らされるんです。
 太平洋の荒波が室戸岬や、足摺岬に打ち寄せて、大きな岩をもくだいてしまうように、人間の精進努力とか、持戒の近いなどは、もろく、すぐにくだかれてしまうのです。
 遍路は夜になるとこんな苦しいだけで、何人の役にも立たない。もう明日の朝はあきらめて帰ろう、と思って寝るのです。しかし、不思議なことに、朝になると、元気がもどっているのです。
 これはお大師様のおかげ≠ニ遍路はいいます。弱気になったり強気になったり、そして、日々限界に挑戦することによって、疲れ、よごれて、自信を失い自分がいかにおるかであるかを知ることによって、きれいごとの自分、うその自分の殻が破れて、本当の自分(セルフ)が顔を出してくる。これが修行の大切な意味であります。
 人間の限界を知るためには、限界まで行かないと知ることはできない。限界まで行かずに途中で引き返したものは、自分の弱い心にまけて逃げているのであって、決して次の段階まで行ったものには、ここではじめて目的とするところは、自分の外(自分変革)にあるのではなく、自分の内(ありのままの自分に帰る)にあるということがはっきりと見えてくるのである。

伊予は菩薩の道場
次は胎蔵界大日如来の真下、西です、西には無量寿如来という仏が描かれています、この仏は「菩薩」という意味を持たれた仏なのです、ですから四国の西の国、伊予は菩薩の道場といわれています。
 さて、それでは「菩薩」とは何かを意味しているのでしょうか。お大師様の教えの中に「[煩悩即菩提」という御文があります。お釈迦様は、このことを「きたない泥の中にこそ綺麗な蓮華の花が咲く───── 。」とお説きになりました。
 土佐の修行の道場では、心は外に向いている、今の自分を否定して、自分でない他の者(仏)になろうと修行するわけです。しかし限界に何度も挑戦するうちに、人間は人間以外の他のもの(仏)になることはできない、ということを疑うことのできない真実として知ることになる。わたしは、糞もたれるし、小便もたれる、鼻くそも出すし、それから汗もかく、血も出すし、膿も出す、それから腹がへればガマンできない。綺麗な女の人を見たら後からついていきたくもなるしね。どうしようもない自分なんです。このどうしようもない自分、煩悩を持った自分が、仏になどなれるはずがない。しかし、「煩悩即菩提」とは、これを可能にする道なのあります。

四国霊場地図

  土佐の国は太平洋の外に向かって開けているわけですが、伊予の国は四十五番岩屋寺へ横峰寺へと石槌山系の山の奥の奥へと入って行きます。これは心理学的に見ても、身は山の奥へ、心は自分の内なる心の深層に入って行くことを意味しているのです。
外に求めるのでなく、心の内なる光をあててうそのないありのままの自分を見ること、これが、伊予の国の菩提の道場の主要な意味なのです。
それでは、お大師様は、このへんのところをどう説いておられるか、般若心経秘鍵という御本の中で「それ仏法遙かに(はるか)に非ず、心中にして即ち近し、真如外に非ず、身を棄て、何か求めん」仏法は特にすぐれた人、選ばれた人のところにあるのではない、わたしたち一人一人の心の中にある、真実の生き方は、この肉体を離れてそとにあるのではない─────と説かれています。
また、「心の内に仏がいる」と説かれたのは、なにも弘法大師だけではない、禅宗の祖、臨済は自らの外に仏を求める修行者にむかって「今、わしの面前で説法を聴いているお前こそが、それ(仏)だ」と説き、「赤肉団上に一無位真人あり」(臨済録)と説いている。
 又、浄土真宗の祖、親鸞上人は、自らのいつわりのない心を見て、「ひそかに、この心を推するに──── 穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心無く虚仮諂偽(こげてんぎ)にして真実の心無し。」(教行信証)といい品現は善人たりえない、自分のことを善人などという人は、自分の内なる心をありのままみていないからで、親鸞上人は、御自身のことを「極重悪人」といった。
 四国遍路の懺悔の行の至るところも、正しくこのへんのところである。遍路は、「自分のことを反省して自分のことを反省して自分のことを悪く言う人ほど良い人である。」このへんにくると自分の自慢ばかりする人は、宗教的には、段階のひくい人と言わねばならない。

讃岐は涅槃の道場
 次は胎蔵界大日如来のすぐ左、北です。北には天鼓雷音如来という仏が描かれています。この仏は、「涅槃」という意味を持たれている仏なんです。ですから四国の北の国、讃岐は涅槃の道場といわれます。そろそろ、クライマックスに入ります。
 さてそれでは、「涅槃」とは何を意味しているのでしょうか。
「土佐」から「伊予」へは、自分の外に仏を求める「修行」から自分の内に仏を求める「菩提」への大転換がありました。これは、人生で言うなら、青年が大人になる大切な変革であるわけです。
 さて、これから、「伊予」から「讃岐」へ最後の第転換がおこります。「菩提」から「涅槃」へ、これは「仮」から「真実」への大転換であり、人生の目的への到達といっても過言でありません。
 この大転換を弘法大師の教えから読みとるなら、三平等という教えであります。「一切衆生、と我、および仏は平等にして差別なし」(秘蔵記)
 わたしたちは、「修行」を積むことによって仏(人間の作った仮の仏)になれない自分に気付くわけです。それから自分の心の内に光をあてて、うそのない、ありのままの自分を見つめた〓菩提〓その時、仮の仏の立場から見るならいつまでたっても自分は、人間の仮面をかぶった動物にすぎないこと、自分が今まで求めていた仏は、人間が便利のために勝手に作った血のかよわない、至ることのできない仮空の、人間の心が想像で作ったものであることに気付くわけです。
 そして、わたしが、わたし以外のもの(人間の作った仮の仏)から見ると動物の世界に身を下すこと、一切衆生の中に自分を置く(ありのままの自分に帰ること)そのことによってわたしたちは、本来の仏に出会うことができる〓「涅槃」〓これが、お大師さまの三平等の教えであります。
 この大転換は、何も、弘法大師にかぎったことでありません。
 親鸞上人は御自身を「極重悪人」といわれた。この意味は、中途半端なところでは、人間は、善人顔ができるが、たとえば生命のやりとりをするような説きになると、人間はすぐ、うそを付きます。すぐ約束をやぶります。そのような深いところで、親鸞上人は、御自身を「極重悪人」といわれたのです。しかし、ここで終わりであれば、親鸞上人もただの自分を悪くいってとくになっているただのの人です。きれいごとで終わってしまいます。親鸞上人のエライところは、これから開きなおるのです。さあ、どう開きなおったのかと言いますと、「この人も、あの人も、自分だけではない人間は、みんあ極重悪人だ」といっちゃったのです。
 さあ、そうなるとどうなりますか。生きるということは、善悪(人間の知恵)をこえている善悪のワク内で生きとし生けるものは生きているわけでない、ということになります。
 そこで、ここまでくると涅槃経の「一切衆生 皆悉(ことごとく)仏性有り」という御文が大いなる意味を持って、輝き出します。人間も動物も植物も海も山も川も空もみんな同じ生命であり、これら全部に目鼻を付けたものが仏であり、われわれは、この仏の世界から生まれ来て、仏の世界に帰って行く仏は、あたかも、大海のごとくであり、善も悪も、きれいなものも、きたないものもすべてを受け入れて、生命の源をなしている。仏のの知恵は、人間の知恵をこえており、生命の世界は仏の知恵のはかり得ないところである。
 この大宇宙のすべてのものは仏の生命であり、この大宇宙を、一本の木にたとえれば、自分は、一枚の木の葉であり、秋になれば、なんの未練もなく散って行くことができる。春になれば若葉が芽をふき、夏には青葉が茂ることを祈りながら、禅宗では、このへんのところをどのように説いているのか。
「十牛図」の第一図 尋牛の序に「従来失せず何ぞ追尋を用いん」〓もともと失ってはいない、どうしてさがす必要があろうか〓と説いている。
 人間の理想像(人間の創った仏)を求めて、人間の外にありかたをさがすことをやめた時、もともと人間とは何かが見えてくる。それは、自分の変革でなく、自分への回帰である「十牛図」では第九図返本還源〓本の状態に返る、源に還る〓ということばで表現されている。
 「日々是好日」とか「平常心是道」などのことばも同じ意味がふくまれていることと考えられる。
 このへんのところを大日経では「我、本不生を悟りて、語言の道を出過す。」〓ありのまま、うそのない自分を見ることによって、人間の作った(語言の道)世界をこえて、仏の世界に入ることができる〓と説き、華厳経では「三界は虚妄にして一心なり」
 この華厳経の御文の意味は、「虚妄」というのを無意味と解釈せず、「主人」ではなく、「従者」あるいは、「道具」と解釈すべきです。「空」についても同じことが言えます。「空」〓無意味、不必要という解釈はまちがっています。「空」もやはり、「主人」ではなく、「従者」あるいは「道具」と解釈すべきです。般若心経の色即是空、空即是色という二重否定は、「主人」ではないが、「従者」、「道具」として、大切なものだと認めているのですから。
 さて、華厳経の御文にもどりますが、「三界は虚妄にして一心の作なり」の意味は先ず、「三界」この世の中のすべての広い意味での人間の知識(欲界・色界・無色界)は、人間の心が作ったもので「主人」ではない、これにふりまわされてはいけない、というのです。
 次に、しかしながら、一心、すなわち人間(自分)は、生きて行く上で、便利だから、必要だから、「従者」として、「道具」として、三界を作ったわけで、この三界にはいろいろな用途をもった道具がバラバラにいっぱい並んでいる。これに統一をもたらそうなどと考えると大変な混乱をまねくことになる。切なる道具もあり接着する道具もあり、相反するもの、よくにたものが雑然とならんでいる。それで良いのである。この道具を使う使い分けるのが「主人」たる人間なのである。「一つの道具にこだわる」と主従が逆転する。そして自分も他の道具も無意味になる。そして「一つの道具にこだわる」ことをやめると、その道具も生かし、他の道具も生かすことができるようになる。手に持った道具を一度離さないと他の道具を持つことができないのである。悟りは「子供」に帰ることだとよく言われる。これはこのことを言っている。子供は、相反するものを持っていても矛盾を感じない。「大人」はこれに矛盾を感じる。この時「大人」は一心(自分)の作である、三界が「主人」となり、自分が「従者」になってしまっているのである。「子供」は、三界のすべてをすてたり断ち切ったりするので はなく、必要に応じて使い分ける。「この世は無尽荘厳の蔵である」(大日経)という御文もこのへんのところを言っているのである。三界を「従者」と見他説き三界にはくみつくせない宝があり、使い方によっては、みがきかたよってはただの石も宝石になるのである。
 そして、この「悟り」〓「子供」のこの「子供」が、ありきたりのいみでの「子供」であろうはずがない。ありきたりの意味での「子供」は、自分の保身ばかりを考え、自分の都合の良いほうばかりを取り、矛盾をはずかしく思わず、つかいわける。しかし、「悟り」〓「子供」は「自分の保身、自分の都合」をも虚妄(空)と見るのでなくてはならない。禅宗で「桶の底が抜けたような」というのはまさにここを言っている。自分の生命であれ、自分の子供や家族に対する愛までもぬけ落ちていなくてはならないのである。しかし、これは愛を断ち切るということがちがう。あくまで愛が「主人」となって、自分が「従者」となってはいけないということである。自分にとって、自分が「主人」であること、これが「悟り」〓「子供」の条件である。これは、家族といえどもお互いの人格を尊重することにもつながる。
 さて、この涅槃のどうじょうである讃岐の国をとりしきるとき仏、天鼓雷音如来という仏は、天の太鼓と雷の音と書くんです、やかましい仏さんです。しかしながら、このやかましい仏さんが涅槃寂静という、もう浪立つことのない静かなお釈迦さまの悟りの世界をいみしているのです。ですから、険阻な伊予の山々をぬけて、讃岐の国に入りますと、瀬戸内海の太平洋の海とちがって鏡のように静かです。それからあの善通寺さんの辺りの山々は、裾野が広くてなだらかなんです。讃岐の地形までもが、この涅槃寂静を示しているのです。で、この天鼓雷音如来のこの鳴物入りのやかましい仏の名前は、わたしはこれは間違いじゃないかとはじめ思ったわけです。「こんなやかましい仏さんが涅槃寂静ってそんな静かな悟りの世界を表すと言うのはおかしいじゃないか。
 それでね、わからなかったんです。どうしてもわからなかったんです。間違いでないだろうかと思って。でね、二年ほど前に、もう一度、法華経の原点を読み返してみようと、原点を読んでいたんです。そうしたらね、出てきたんです。「大いなる教えの太鼓を打ち鳴らして、一切の生けるものたちを老病死の海から救い出す」(法華経)といった御文がたくさん出てくるんです。釈迦の説法の声をね、法華経で太鼓の音にたとえているんです。これだと思ったんです。天鼓雷音如来のですね、太鼓の音はですね、釈迦の説法を表しているんです。讃岐の国はこれは特別な国です。讃岐の国へ入ってまいりますとね、だんだんだんだんこれはね、終わりに近づいてゆくんです。阿波の国では、土佐の国では、伊予の国ではね、みんな足し算するんです。十ヶ寺済んだとかね。三十ヶ寺済んだとかね、足し算してゆくんです。ところがね、讃岐の国は逆なんです。讃岐の国はね、引き算なんです。あーもう十ヶ寺になった。だんだん惜しくなってゆくんです。終わりが来てしまうんです。もう五ヶ寺になってしまった、もう三ヶ寺になってしまった、ということになってしまうんです。そうしまうと、だんだんこ の自分の心の中に、阿波の国、土佐の国、伊予の国と、楽しかった、苦しかったことが思い出されてゆくんです。ねえ。それとともにね、自分の人生の楽しかったこと、苦しかったことを思い出すんです。又、「人生は遍路なり」というのは、言葉だけではないのです。
 阿波の国は少年少女時代の時代です。純情で、そしてきれいごとばかりいっていた時代があったなあ。また、土佐の国は青年時代です。夢が破れて自分の汚いことばかり気がついてね。そんな時代もあったなあ。ところが子供もできてですね、社会人となって、ね。そして酸いも甘いも知って「オバタリアン」という言葉がありますが、親鸞上人のようにひらきなおってしまうんです。「自分だけが悪いんじゃない」というわけです。きれいごとの世界には真実はないむしろ、この「オバタリアン」の世界が、仏に近い世界です。それでも自分は何か物足りないものがある。死ぬまでにお四国参りもしたり、何とか仏教の勉強もして、仏に出会いたい。そんな気持ちになったわけです。そうです。胎蔵界の曼陀羅は実は人生そのものなのです。それで今、もう修行の旅は、旅は終わろうとしている。で、そのときにですね、自分の心の奥のほうの仏が伊予の国で、かすかにどの辺にあるって、いうのがわかってきたんです。だんだん、だんだんとね、そうすると、心の奥のほうにですね、静かに太鼓の音が聞こえて来るんです。これは仏の声なんです。ねえ。お釈迦さまの説法の声なんですそれが、かすかに聞 こえてくるんです。これは太鼓の音です。大窪寺へ近づくにつれて、だんだんだんだん大きくなってゆくんです。ね。それで大窪寺のご宝前に額ずいた時に、雷が稲光がして、「ドカート」と雷が落ちるんです。それは、みなさん方一人一人の心の奥の方に落ちるわけです。他の人にはわからない、心の奥の方に落ちるわけです。落ちた人にしかわからない。悟りというのは、まあだいたいそんなもんです。
 これが、胎蔵界の曼陀羅が我々に教えている悟りの世界なんです。で、この悟りの世界への道をお大師様は、この四国の地にお移しになったんです。それがなんとも、うまくお移しになっているわけです。発心の道場が阿波の国なんです。この阿波の国はね、何で発心かといいますとな、一番から十番までが、なだらかにだんだんだんだん坂道になっている。ほんとうに最初の出発にふさわしい、この十ヶ所なんです。急に「パーン」と高くなったりしないんです。ねえ。それで、吉野川を渡って向こうへ行くと高い山があるんです。それでねえ。土佐へ入って、この、自分がもう自分の限界に気づいた時です。そこがあの室戸の荒磯なんです。で、延々と続く長い道なんです。それで、夏は暑くて冬は寒い土佐の国なんです。自分の深層に気づくのが伊予の国なんです。それは山が深いんです。深い所に分け入っていくんです。自分の心の奥へ奥へいくわけです。そこで仏がどの辺におられるかを知るんです。で、抜けた所、ほとけに出会うところは讃岐の国です。
 瀬戸内海の静かな鏡のような海なんです。山裾がなだらかな、ねえ、ゆったりとした讃岐の平野なんです。何とうまくできているんでしょう。ねえ。これが胎蔵界の曼陀羅を四国へお移しになったという意味なんです。このようなことは弘法大師以外の人に出来るはずがありません。
 現世利益というのが、四国の八十八ヶ所の大事な所だと言われております。現世利益というのは、お参りしたら病気が治る。それから商売が繁盛する。家庭が円満になる。みんなが幸せになれるという現世利益です。で、やはりこの四国は、そういう現世利益の道場であるわけです。しかしながら今言いましたように、胎蔵界の曼陀羅は、身を捨てるというところにあるんです。この身を捨てることによって後からついてくるのが現世利益なんです。最初から現世利益ばかり求めておったんでは、現世利益はついてこないです。自分自身を捨てる。そこにほんとの現世利益」が後からついてくるんです。そんな気持ちで一つお参りしていただいたらと思います。
 四国八十八ヶ所の長い旅の終わりに円を描いてもとえ還る旅である。八十八番結願所から、十番切幡寺まで、現在、車で三十分の距離にあります。悟りへの道、発心、修行、菩提、涅槃の道は、円を描いて、還る道であります。もう一度「十牛図」の”もともと失っていない。どうしてさがす必要があろうか”をかみしめて見たいと思います。
 長い苦しい旅の終わりは、もとに帰ることだったのです。他の人から見れば、普通の人と変わらないのです。しかし、この道を通って、帰って来た人は、「地獄の猛火の中でも微笑むことのできる」(天台小止観〓浄弁)境地に達しているのです。


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