本多碩峯


我が郷里
平安時代
十世紀から十四世紀は天王寺、高野大塔、桜井宮、神護寺の造営に杣山(そまやま)の役割と
綿、絹糸布の生産で豊かな生活があった。
和歌山県有田郡清水町杉野原(旧:有田郡安諦村杉野原)


参考文献:「紀伊国阿弖河荘史料一・二」

参考文献

旧安諦村


(あんてい)
心を落ち着けて安らかなこと。
安らかに静まっていること。
潅頂記・破体心経
この文字は弘法大師の筆跡

紀伊国阿弖河荘は、現在の和歌山県有田郡清水町の町域がほぼこれにあたり、典型的山間の荘園である。荘園としての歴史は十世紀末期から明らかになっているが、その存在は平安貴族の造邸、造寺のための杣山(そまやま)として重要な位置を占めていた。高野山が十四世紀初頭の自領編入に至るまで、この阿@河荘の領有を執拗(しつよう)に要求するのも、高野山の造営事業のための杣山の確保ということから発しているのである。有田川の奥深い杣山から荘園へと転じた阿@河荘の歴史は、荘園領主園満院・寂楽寺、地頭湯浅氏(湯浅氏に支えられた保田氏)、荘民の三者の絡みあいの中に、高野山がが割り込んで展開するという変転きわまりない歴史であった。現存する高野山文書は、この展開過程の野中で荘園領主寂楽寺と地頭湯浅氏との抗争に関する史料の比重がきわめて大きい。有名な建治元年の百姓の片假名書申状もこの対立の中から生み出されたものである。
 阿弖河荘支配が湯浅氏の支流である阿弖河氏のみならず本流保田氏(現直系当主保田祐司氏、清水町久野原在住・舜二母本多こちよの生家)との當結合の下にあったということと、湯浅當が生んだ神護寺上覚房行慈と高山寺明恵房高辨の二人の修学の場と寺領経営が、湯浅當と密接な人間関係のもとにあったという。文覚から上覚・明恵という線は単に師弟関係にとどまらず、背後に湯浅武士団があると言う点で注目され、ここの鎌倉佛教の特徴のひとつが潜んでいると思われ、鎌倉佛教と武士団との狭間に当時の郷里があった。

文化年間(1804〜1817)、徳川幕府の命によって紀州藩士、仁井田好古が天保十年に完成した『紀伊続風土記』によると、阿弖河荘は山保田荘と稱され、その時代の村数は二十六ヵ村といわれている。その村々は現在和歌山県有田郡清水町の町域と全く合致している。しかし、『高野春秋』の正嘉元年(1157)秋八月日の記事に「阿弖河荘(今號園庄)」とあって、高野山のすぐ南の現在の伊都郡花園村をも阿弖河荘域にふくむものとしています。この記事は『高野春秋』の編者検校懐英(かいえい)のごかいによるものではなく、例えば元久元年(1204)八月十九日の阿弖河上荘年貢検納状案によると、准六絹を貢納する名(みょう)に有中があるが、有中は現在花園村域内にあり、これは名(みょう)が地名化したものと考えられ、また建治元年(1275)六月十七日の阿弖河荘百姓牛馬追捕注文案に百姓一人が地頭によって搦(から)め取られた在所に「あたらし」がある。この「あたらし」が花園村新子であるとすれば、阿弖河荘は伊都郡花園村にも相当食いこんだ形で存在していたことになろう。『紀伊続風土記』は山保田荘の地勢の説明の中で【高野領伊都郡花園荘此荘(山保田荘)の上流にあり、在田川の源なり、その古名を阿諦川荘という、當荘と其名を一つにす、今按するに花園荘の地伊都郡東南隅に疣出(ゆうしゅつ)して別に一区域をなし、本伊都に属すへき形なし、當荘と接する所山勢彊界を隔つるの形ありといへとも、渓流は一にして群界となし難し、今山脈川流によるに、高野峰より直ちに長峰につづく連嶽の峰通りを群界とするは其分明なり、荘名當荘と古名同じきは、古は同荘の地にして在田郡に属せしならん】と記している。阿弖河荘が現在の花園村の全てをふくむものであるとは言えないにしても、花園村「の一部をその荘域内としていることは確実である。
 以上のように、阿弖河荘は和歌山県有田郡清水町の全域と伊都郡花園村の一部をふくむとした。阿弖河荘は、御殿川が高野山の南斜面から発し、湯川川、北野川など大小の渓谷を合わせて有田川となるが、これらの川筋に僅かに開かれる耕地のほかは、ほとんどが山林からなる山間僻地の荘園である。そして荘園は行政的に上荘(上村)と下荘(下村)に区分されている。文永四年(1267)五月の上荘在家綿注文案に、上荘に所在する字名と在家数が記されており、字名にはヲシテ(押手)、スキノハラ(杉野原)、イタホ(板尾)、クミノハラ(久野原)、立紙(立神)、井タニ(井谷)「旧安諦村の字名」などがある。これらの字名は清水を分岐点とする御殿川、湯川川のうち、御殿川に沿う地域であり、また正平十五年(1360)の後村上天皇綸旨に「阿弖川上庄眞松名湯河村金垣内屋敷名田等」とあって、湯河村が上荘にあることがわかる。このことから下荘は雨川の合流点から下流の地域と推測される。いま保延三年(1137)の下荘、建久四年(1193)九月の上荘検田目録と、同年九月上荘在家畠等検注状案および下荘畠等所等注進状案(この注進状案には「上荘可辨進色々所當物等事」とあるが、両状よりすれば、下荘のものと思われる)から畠地の地積を表示すれば下記のようになる。

阿弖河上下荘地積表

上荘 下荘
定田 285反30歩 43町7反140歩
除田  9  1 240  7  3   90




寺免
神免
所司免
下司免
預所免
公文免
高樋免
 1  4 120
 1  4 120
 1  5
 1
 1
    3
 2  5
 1  2
    7
 1  5
    ー
 1  *
    3
 2  6  90 
不 作 田  12 3 108     5


河成

?不作
   3  140
 7 5
 4 4  328
    ー
    5
    ー
小    計  50 0 80
(50 0 18)
 51 5  230
(51 5   230)
 21 8 30 60
合    計 71 8 48  111 5 230
栗    林  31 0 70  20
  1890本      ー
  598       70本
   32      ー

建久四年(1193)九月、上下両荘に大規模な検注がおこなわれたが、上荘のものと推定される定田地子検注目録案が三つ断固として残している。それよrによれば各字の田地は一町未満から七町余で、各坪ははとんどが大なり小なり常荒・荒・をかかえている。それは絶え間ない有田川本流とそれに注ぐ谷川の氾濫の結果であろう。中世的粗放経営とともに、このような阿テ河荘の地理的条件は、當荘の年貢公事を米穀より綿、絹綿とその加工品である絹・布・絲、現綿とし、他方、天王寺と高野大塔や寂楽寺、桜井宮、神護寺など造営に杣山の役割を果たしていることからわかるように、木材を年貢としているのである。

山保田荘  総二十六箇村

寛永二十一年(1643)

〇紀伊続風土記巻之六十二

中原村 川合村 二沢村 北野川村 三瀬川村 二川村 大谷村 日物川村 境川村 楠本村 遠井村 三田村 宮川村 大蔵村 西原村 寺原村 寺原村小峠 湯子川村 久野原村 沼谷村 井谷村 板尾村 杉野原村 押手村(旧安諦村) 下湯川村 上湯川村 


 山保田荘総て二十六箇村、郡の東端にありて、東は伊都郡花園荘、大和国吉野郡に堺し、西は石垣荘と堺す、南を日高郡山地・寒川両荘とし、北を伊都、那賀二郡高野領諸荘とす、疆域東西六里、南北五里、此荘は古の英多(アタ)郷の地なり、英多は意ふに上古は安諦と云ひて郡名と一なりしならむ、平城天皇(806〜808)の御時に至り、天皇の御名に渉るを以て安諦郡を改めて在田郡とす、此時安諦郷も改めて英多とぜられしならん、後世皆アタと稱するものは古の稱なるへし、天野丹生家譜に當川(アテカワ)とあり、東鑑元暦元年に阿テ河荘とあり、高野建久八年文書には安世川荘とあり、保田は太平記安田と書す、安田(アタ)は則阿多なるを誤り読みて耶須太(ヤスダ)と唱へしより後遂に保田野字を用ふるに至れり、・・・・。
 杉野原 須岐能波羅

田 畑  三百十石一斗九升
家 敷  四十二軒
人 数  百七十九人
板尾村の東二十一町半にあり、東高野領柳瀬と堺す、杉野原は杉原にして、名義字の如し、村居一谿の内にあり、三ッの山突起して鼎足の形をなせり、村居四ッに分かれ、上手番・神也番・中村番・野中番の名あり、
川津明神社     境内周十町
   本 社 川津明神社
         八 幡 宮
   末 社 川津明神社
          奏者神社 
 中村番にあり、村中に川津の滝といふあり、其淵に蛇あり、、昔年其蛇美少年に化して村中の婦人に交わり、此地の守護神とならんと約せしより、里人神屋番の地に社を建て川津明神社と祀る、(今其地を古宮と云う)慶長中社を今の地に移すといひ伝ふ、後又境内に八幡宮を勤請す、當社舊はハ福寺と云ふ神宮寺あり、寺廃して今雨錫寺より支配す、境内に阿弥陀堂あり、
●三寶荒神社  中村番にあり、
雨錫寺 寶雨山 真言宗古義板尾村徳善寺末寺
      川津明神境内にあり、鐘楼堂あり、
●小堂三字
  大師堂 野中番にあり、    観音堂 神屋番にあり、   地蔵堂 上手番にあり、   皆除地なり、 又中村番に
舊観音堂あり、 延享元年(1744)名草郡森村へ移す、
舊家     保 田 氏
家伝に其祖保田三助重宗の家臣保田掃部光安といふ者の後なり、天正中三助高野山衆徒と合戦の時、掃部當村に住す、鬼城九鬼峠(二所村の北押手界にあり、)に出張、衆徒と合戦し勇名ありよし、保田家亡ふる後掃部農民となり、子孫代々荘屋役を勤む、 

    
 


元本多医院の跡(現如意輪寺・高野山金剛峰寺前)

元本多医院跡(慶応年間から明治中期)

元本多医院跡(慶応年間から明治中期)(高野山大学教室より)

県道から見る本多舜二生家(杉野原中村番)


本多舜二の生家(築後約150年)1999.8.15撮影
有田郡清水町杉野原

生家の玄関「老松庵」


生家の襖その1

生家の襖その2

生家の襖その3

その4

座敷から中庭を見る

安諦小学校開校百周年記念名簿

「安諦小学校沿革概要」より抜粋

明治 五年 学制発布と共に村学校が設立され大字井谷、板尾、杉の原、押手の児童を一ヶ所に集め教育を施すこととなったが校舎新築の暇なく大字板尾の阿弥陀堂を仮校舎として本多柳源氏を先生に迎え五十有余人の子供に教育を行う。教育事業の第一幕としては実に盛大なるものなり。その後校舎を同氏(本多)宅に移す。

「安諦小学校歴代職員」より抜粋

本多柳源(曾祖父)・本多こちよ(祖母)

「歴代卒業有名人」

川嶋庄一郎(旧姓松浦・秋篠宮妃紀子さまの祖父)・
正示啓次郎(元大蔵省主計局長・衆議院議員)

随 想
老兄 松浦眞一「亡父舜二の従兄弟・本多碩峯の義父・川嶋庄一郎と姻戚関係」
  橘畝本多舜二書

人間の精神は大空の如く自由である。
何等さまたげるものはない。
自由にして妨げなき天地を自由に疾駆する。
舵取りは人間の良識と云うものである。
良識の人間は自由を尊ぶ而して世を開く、
即ち風格とは聊か異なるものか。

良識とは何であるか、
対峙して誤りなく後に必ず善き結果を遺す判断力、
是を形容して私は良識と称して見る。
 昭和四十二丁未皐月書


本多家戸籍簿(明治五年戸籍編製時・除籍簿)


曾祖父本多柳源(舜二の祖父)天保14年3月16日生(1842年)

祖父本多一潔(舜二の父)「愛知医専の学生時」明治5年8月10日生

県立農林学校卒業時に紀州藩主、侯爵・徳川頼倫より学術品行最優等賞を授与

祖母 こちよ(舜二の母)と長崎県柑橘指導所長時代(昭和11年4月・1936)


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