弘法の言葉


目 次
とらわれない心 広く深く見よ ひるまずただすべし 真の意味を知る 先輩と後輩 真の実相を知る 自分と他人 マザーテレサの言葉
二利につきる 生れ生れ・・・・ まことのことば 自心を知るとは 限りなき願い 人の香と花 正しい智慧と永遠の命 個性を生かす
とらわれない心
本 多 碩 峯

あざける


酔っぱらいは
酒に酔わない人を
嘲笑する
ねぼけ者は
目覚めている人を
嘲笑する。

 ほんねとたとまえを上手に使いこなしていくことが世渡りの秘訣であり出世のカギをにぎっていると言われている。
 本ねが言えずうまく話を合わせておくということは、私達の日常生活の中に少なくありません。その一番見事な例は、選挙、特に地方選挙によくみられる。どちらの顔にも縦ねばならず「よろしく」と言われると「解りました」と答える。そこで、Aの候補にもBの候補にも一票いれます、支持しますという名簿ができてしまう。「票読みは倍以上でなければ」安心できないということが常識になっている。
 子供の立場からみると、誠に不思議なことというほかないであろう。
 それに、もっと恐ろしいことは、そのことへの反省や矛盾を忘れてしまい慣れてしまってきていることである。
 ほんねが言えない社会であることは現実であるが、だからと言ってそのことへの反省すら失ってしまうことになったら、もうこの世に未来がなくなってしまう。
 それとともに真実に生き、正しさを実現しようとする人達が理屈屋とか変人とか言われてさげすまれ、仲間はずれにされる場合が少なくないことである。
いたずらに権利ばかりを主張し 義務を果たさずにわがまま放題の人が多くなってきており そのようなことは全く許せません。そのような人は正統に批判されていくべきでしょう。
 しかし真に人間が人間らしく生きることができるように、何が真であり善であり正義であるかを問いかけている人間までも個人主義者、利己主義者ときめつけとしまってはならないでしょう。
 人間というものは言い出してしまうと どうしても自分の意見を正しいものとしてあくまでも通してしまわねばならない感情にとらわれてしまうものである。
 また 自分の地位や立場を利用して あいてを押さえつけ、強制しがちになる。親が子に対し、夫が妻に対し、上役が下役に、会長が会員に、先生が生徒になどあげていくと数限りなしである。
 弘法大師も出家し、佛教信仰者になるための修行のなかで当時の人達にどれだけ変人、親不孝者、くそまじめ人間とさげすまされてきたことか知れないでしょう。
 お酒の席になると酔った人がいばりだして酔わない人をちゅう嘲笑(ちょうしょう)する例は少なくありません。
 それと同じように正しい信仰の道を歩んでいる人達をなにも知らない人達が自分のことを考えずに、嘲笑している場合が少なくありません。このようなことでは人間の社会はよくならない、改善していかねばならないと弘法大師はかたりかけていると考えられる。
 真実と正義に生きている人達が支持されていくようにしていかねばならない。佛教の教えにめだめていくためには このような現実について強く反省すべきことであると教えていると考える

痛狂は酔わざるを笑い、酔睡は覚者を嘲る
『般若心経秘鍵』

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広く深く見よ

自分の知っていることが
総てだというような
狭い考えでは
広く、深く
真理の世界を
知ることは
許されるものではない

 「大日経」に”如実知自心”という事が説かれています。”真実の自心を知れ”と云う意味ですが、「他人をだませても、自分をだますことは出来ない」どんなに巧みに騙せても、自分は真心で語ったとは思わない。どこまでも騙せない自身の心、その「心」が神であり、佛である。と云うことです。心を悟るを佛と名づくとも解釈出来ます。この自心の如何なるものかを徹底的に検討して、その本質を掴むことが「悟り」であり、成道です。
 弘法の云っている「心」とは何なのか、この心はお互いに物を考る時の心(人事処)、記憶する時の心というような表面的な心でなく、それは生きようとする意志のその奥底に流れる真心のことであり、生命(いのち)の実体についていう心なのです。
 ここにいう心は、菩提心論で云う本有の「完全円満な人間・仏」(菩提心)の「心」、即ちこれを心といい身と云うも、ただ一物の両面せあってはいけない、「実の如く自心を知る」と云うことは、またその外部をなす自身に徹することでなくてはならない。
 弘法は「自己を知るは即ち仏心を知るなり。仏心を知るは即ち衆生の心を知るなり。三心(自分の心徒歩解け及び衆生の心)平等なりと知るを即ち大覚と名づく」と云っている。
 「我即大日」自分一個の生命の中に、全宇宙の神秘がこめられていることを自覚し、「実の如く自身を知る」(浄菩提心)ことに精進する。一般に私達は真実の自心を知らない。それを無明と云う。無明は光明を失った暗い無知の心である。私達は無知の闇に沈んでいる凡夫であります。
無知と云うのは私達の生存それ自体をあらわしているものであり、無知におおわれているのが、私達の生存そのものであると云っても過言でない。
 無知なる吾を自覚すると云う事が密教の第一歩であると云って言い過ぎでないとさえ云われています。
 広く深くみよ、とは単なる知識や技術を言うのではない。私達が生きていく上で根本的なあり方で、狭くとらわれ無知にとらわれなく、宇宙的な心を持つことを意味していることを言うことができる。

 

自分はもっと自分というものを大切に
もっと自分と言うものに忠実に、深切に、
その日その日を愛し、慈しみ、育み
生かしていかねばならないのである。

     

末学の凡夫、あながちに胸臆(くおく)に任せて難思(なんじ)の境界を判摂すべからず

『秘密曼陀羅十住心論巻第九』  (弘法大師 空海全集第一巻 657頁 筑摩書房発行)


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ひるまずただすべし


昔も今も、清廉潔白な人が
家を富まし
直言して主をいましめる人が
身を栄やしたためしはない
けれども、義を守る者は
正しからざるものを受けず
道に順う者は
ひるむことなく直言するのみである。

 弘法大師の手紙を集めた「高野雑筆集」には知人からの手紙に親切に返事を出しておられる弘法大師の優しい思いやりがみられます。
これも、弘法大師の手紙の一部分ですが誰あてのものであるかは解っていません。
 中央政府の中位の官吏をしている上役の誤った行いに、どうしてよいか迷っている人であると推定されます。
 誤ったおこないがあることとは、どういうことか書かれていないのでではっきりしないが、おそらく地位を利用して私欲の限りをつくしていることではあるまいか。
 とかく不正な行いであることは、はっきりしています。だから不正をただすために上役に直言しなければならないことは解っています。
 しかし、上役に直言しても反省して不正をただすということはまず考えられないことであり、返ってにくまれ、なにかにつけていじめられかも知れない。
 自分は良くとも家族のこともあり、迷わざるをえないのでありましょう。
 そのことを弘法大師、この一文の後で、正しく問題の本質を指摘されています。一千年前も、現在も全く変わっていない問題です。
 弘法大師はこの世では不正が正よりも強く、善よりも悪がみなぎっていることを、よく知っています。
 昨今の、宗教団体あるいは宗教家の(その団体・個人は偽物)とんでもない悪事、公務員の許されない悪事、企業ぐるみの総会屋との悪事、金融機関幹部の公金着服、医療機関のエイズ問題に見られる悪事、選挙に関わる不正な問題、企業経営に関わる経営理念を問われる諸問題、青年男女の教育に関わる悪事等々、数え上げればキリがない。
 ですから、当時、心ある役人の弘法大師への手紙での質問の素晴らしさに感動さえおぼえますね。
 その質問に答える弘法大師がどう答えたらよいのかと苦しんでおられます。
 そこで、昔も今も清廉潔白な人が、家を富ますことはなかったし、直言すれば出世することも不可能になります。それでも覚悟を決め義や善のために進むのが、人のため世のためであると励ましておられます。
  従って、正義のために勇気ある善良な人々の「悪事の犠牲者」多いことを自覚しなければならない。
弘法大師は「役人を辞めるか、左遷かを覚悟しなければならないでしょうとも述べています。」そのために生活も貧しくなり、身分も低くなり、家族や、そのまわりからの批判にもたえていかねばならなくなるでしょう。それでも、正義と善に生きられるかどうか、それは大変なことであります。今の世の中でも、実に多くあります。それで、そのことへの疑問や迷いすら持ちこたえなくなるほど麻痺してしまっているほどです。
 人間に潜む悪の本質を考えるに、我々日本人に最も大切な「お米」とか「お金」について考えましょう。どちらも一般に顔がありません。同じ一万円でも悪事で得た一万円か善良な商行為で得た一万円か判断出来ません。それでも、昔からお金を大切なものであると家庭で教育されてきています。
 それと同じようにお米も、例えば新潟の魚沼のコシヒカリと秋田小町とをブレンドして、新潟の魚沼のコシヒカリですよ、とすすめられてもニセモノであることを誰も解りません。
人間にとって最も大切なもの、に実は悪が潜んでおります。しかし、決してお米やお金それ自体に悪が潜んでいるのではありません。人間の現象の心に「善なる心と悪なる心」が存在すると云うことです。
 今一度、このことの意義を考え直し、身近から不利を覚悟して勇気を出し、ちょくげんしていくべきなのではないでしょうか。

本文: 先後二書を開きて、具に意を覚りぬ。況(いは)むや驚憂己(きょういうや)まず。之を往古に聞き、
之を今時に見るに、未だ廉潔(れんけつ)の土、能く其の屋を潤し、直諌の人、能く其の身を栄やかす者有らず。然れども猶(なほ)、義を守る者は受けず。道に順ふ者は正諌(しょうかん)するのみ。
夫れ、忠諌(ちゅうかん)して身を喪(ほろ)ぼすと、面柔にして物を利すると、斯(こ)の二者は誰(いづれか)をかを捨て、誰(いづれか)を取らむ。取捨(しゅしゃ)間(えらび)は人心の趣(おもむ)くところならくのみ。骨肉の親(しん)と雖(いへど)も、猶、身を喪ぼし、門を喪ぼす。何に況むや、疎遠に於いてをや。
 直諌(ちょくかん)の貴(たか)きは、蓋(けだ)し其の悪を変じて、其の善に順ふにあるか。大士(だいし)の用心は同事、是れ貴ぶ。聖人の所為も、光を和らげ物を利す。且(しばら)く其の塵(ちり)に同じて、其の足を濯(すす)がむには若(し)かず。若(も)い流蕩(りゅうとう)して遂に還らず、諷(いさめ)を聞きて疾(にく)むこと敵の如くならしめば、彼己(ひき)益になくして、現未に損ないあり。
 豈、翼を奮って高く翔り、鱗(うろこ)を払って遠く逝くに若かむや。
 若し公(きみ)、衣を払って隠遁(いんとん)し、簪(かんざし)を投じてこころ志(こころ)を逸(やす)むずること能(あた)はずむば、託するに疾病(しっぺい)を以てし、以て外官を覓(もと)めむのみ。取捨、去就、其の義此の如し。之を察せよ。

訳文: 前後二通の手紙を拝見して、事情がよくわかりました。事のなりゆきに驚き、憂慮しています。昔をかえりみても、 今の世を見渡してみても、未(いま)だかって精錬潔白の身で財をなしたものはなく、是非善悪を忌憚(きたん)なく忠告して主君を諌めた人で、身の栄達をとりあげたものもいません。しかし、それでもなお、正義を守ろうとするものは、邪(よこし)まな金品を受けず、道を重んじてこれに順(したが)うものは、正しく諌めるほかはないのです。
 真に主君のことを思って諌めた結果、わが身の栄達を失うことと、面前で媚びへつらって身のためをはかることと、一体この二つは、いずれを捨て、いずれを取るべきでありましょうか。取捨の選択は、人それぞれの考えによって違いましょう。たとえ血をわけた肉親とても、諌言した親子兄弟をも抹殺し、その一族を滅ぼしてしまうこともあるのです。ましてや血のつながりのないもの対しては、なおさらのことでありましょう。
 忌憚のない諫言の意義は、その悪行を改めさせて善行に向かわせることにありましょう。かくてまた、菩薩の心すべきことは、衆生と苦楽をともにして、これを導き救うことにあり、それこそが最も大切なことなのです。聖人の所行も、自らの才智をかくして万人を救うものでなければなりません。しばらくは才智を包んで顕わさず、世俗に仲間入りして異を立てず、塵多き濁った水では足をこそ洗うにこしたことはありません。いわゆる和光同塵が必要なのです。しかし、たとえ諫めても、その悪事を少しも改めず、諫言に立腹して、かえって敵意をいだくようならば、かれも己もともに益なく、現在と将来にわたって損失あるのみです。もしも、翼をふるって高く飛び、鱗(うろこ)をふるって遠くへ去るほかありますまい。
 しか、もしもあなたが官衣をきっぱりと脱ぎ棄てて隠退し、官吏の職を投げうって心やすんずることもできないとすれば、病気にことよせて、地方官として都を立ち去るほかありますまい。いずれを取りいずれを捨てるべきか、いずれから去りいずれに就くべきか、道は二つに一つでありましょう。よくよく熟孝の上、行動されますように。

高野雑筆集「詩文篇三」(弘法大師 空海全集第七巻 121頁 筑摩書房発行)


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真の意味を知る

ほんとうの私


 

鏡の詩

わたしが鏡を見れば そのかがみのなかに またわたしがいる

鏡のなかに映っているわたしは 鏡を見ているわたしでない

はたしていずれのわたしが真のわたしなのか


鏡中を見れば吾また鏡に在り

吾 我に非ず是れ何れか真

我見鏡中吾又在鏡 吾非我是何真

捨遺雑集  弘法大師空海全集 第七巻 137頁


 私が楽しく読んでいる本の中に「今昔物語集」(旺文社文庫)がありますが、もともと「今昔物語」は十二世紀頃成ったといわれている厖大(ぼうだい)な説話集である。
三十一巻(うち、八・十八・二十一の三巻を欠く)から成り、天竺(てんじく、インド)・震旦(しんたん、中国)・本朝(日本)の三部に分かれている。
 仏教説話や世俗人情をテーマにした、一大短編集であります。その中に 

「今昔物語集」本朝世俗部(一)    参河守大江定基、送り来たりて和歌を読む語()、第四十八

 今は昔、大江定基朝臣が、三河守であったとき、世の中が大飢饉(ききん)のため、食べものがっすっかりなくなってしまったことがあった。
 五月の長雨がつづいたころ、一人の女が、鏡をうりに定基朝臣の家にやってきてたので、よび入れて手にとってみると、五寸ほどのふたつきの布の張り箱で、沃懸地(いかけじ)に金の蒔絵がほどこしていあるのを、香ばしい陸奥紙につつんである。あけてみると、
鏡の内がわに、薄い鳥の子紙を引きやぶって、美しい筆跡でこう書いてあった。

この鏡を見るのも今日までだと思うと涙がさらにこぼれてくる。
美しい鏡よ。日ごろ見慣れたわたしの姿を、人に話さないでおくれ。

  と。定基朝臣これを見て、ちょうど出家の気持ちを心に持ちはじめたころだったので、大泣きに泣いて、米十石を車につみ、鏡を売り主に返却させ、その車を女につけて送りとどけてやった。女の歌への返歌を鏡の箱に入れてやったが、その返歌はいま伝わっていない。
 車につけてやった雑色(ぞうしき)の男がもどってきて、「五条通りと油小路の交差するあたりで、荒れ果てた檜皮ぶきの家のなかにおろしてきました」ということであった。雑色は、だれの家だとははっきり言わなかったのだろうと、こう語り伝えているということである。

  上流階級に育ったと思われるこの女性、何か不幸にみまわれ生活が苦しくなり、女性として最も大切にしていた鏡をとうとう手放さなければならなくなった。
 たぶん毎朝、この鏡の前でお化粧の髪をととのえながら、

おはようと語れば  おはようと返事があり
ありがとうと語れば  ありがとうと笑顔で語るもう一人のわたし
微笑みで返ってくるもう一人のわたし

きっと彼女はその私に励まされ、生き生きと明るく日常の生活をいとなんでいたことでしょう。
 彼女が書かれた歌を読んだ定基朝臣も、あっぱれながらほんとうの私を知っている、米十石持たせ、鏡も大切にと送り帰す思いやりのある優しさが感動いたします。
 弘法大師は「今昔物語」より400年ほども昔にお書きになった詩集文に書かれています。
 弘法大師が仏門に入って感動された御本の中で龍猛菩薩の書かれた「菩提心論」に、わたしたちを含む大宇宙は「崇高で完全円満」、すなわち「阿耨多羅三藐三菩提心」を本来備えておられる、”ほんとうの私”仏教ではこれを実相「ほんとうのすがた」と説かれております。


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先輩と後輩


年長のものは心寛く大衆を調和に導き

年少の者は恭順を旨として仏道を問い学ぶべきである

賎貴の差別など口にしてはならない


『長兄は寛仁を以て衆を調へ
幼弟は恭順を以て道を問へ
賎貴を謂ふことを得じ』

続遍照発揮性霊集巻第九    弘法大師  空海全集  第六巻 六十九頁

いつの時代でも、どこでも先輩と後輩、上と下との関係がある。
先輩は風を吹かせて、後輩はなまいきだと言い、上は人生経験関係なく命令調で、後輩、下は先輩、上の悪口をかげでこそこそ言って、うらで舌を出している。
表面はきれいだが裏はみにくい。 このように先輩と後輩、上と下の関係で疲れはて、その集まりから脱落したり、中には生命を自分から立ち切った事件も、数かぎりなくある。 これを当然だと言い切る者はいないだろう。
生きるためにやむなく従い耐えているだけである。お釈迦さまは、弟子の集まり仏教徒の集団が出来たときから、そのことを心配してサンガの精神を説いて、そのようなことのないことを力説した。
その精神を汲んで中国の翻訳家は、サンガを和合と訳した。素晴らしいことである。
弘法大師空海は、中国留学で純密を学び帰国して、自分のもとに教えを求めて集まって来る弟子たちに、このお釈迦さまのサンガの精神を教えたそうです。これがこの言葉である。
集まってくる者の中には、すでに南都の仏教寺院で、あるいは華厳仏教、あるいは法相、三論仏教に達し、一家をなしている者もいた。また、大師のもとではじめて僧侶になった者もいた。それらの人は集団生活をするわけですが、
私が仏道修行と言いましてもある定まった期間とはいえ、その経験がない。
 その私が弘法大師の集団生活の仏道修行など語れるわけがない。事業の挫折からとはいえ、生涯仏道の道で「少しでも世への働きを」なすべく出家した、私の修行僧の一日を通して語りたい。62歳の私が海抜300米の頂上の一軒の寺での修行は、自分の思うように行動する時間も場所もきわめて少ない。 
 何故そうなっているかと言うと、修行して真理を体得し生活に生かすためには、一切衆生(生きとし生けるものすべて)と共に精進努力することが必須条件となっているからである。
 弘法大師のもとで修行僧が生活して行くために、それらの僧侶集団の民主的な会議と、それぞれの役職についた先輩たちの指導によって大師のもとに成仏をめだして修行生活が続けられたという。
 その原理として示されたのが、この言葉である。
 健康であること、金銭に不自由のない生活、このことが家庭に止まらず、企業においても『幸せ』の必須条件であって、それを成就することのみに信仰があると思いがちであるが、 修行僧として仏道を歩む中で、一切衆生『生きとし生けるもの』短い人生かもしれない人、あるいは長い療養生活者、あるいは健康にして世に尽くしながら高齢で病んでいる人も、あるいは精神・身体障害者も『菩提心論(空海)の一切衆生は本来完全円満である』と言う御教えを潜在意識に流入した時、一切衆生少なくとも全人類が『幸せ』を自覚する時であります。
 一切衆生の平等の中にも、先輩も後輩も職場の上下の掟がある おれは若いころにはあのように思った事がある。そう考えるのも無理ではない。しかし全体からみると、それは出来ない。という大きな広い心、差別しない平等な心、それが先輩の心得である。 後輩は、先輩の言うことを、先ずすなおに聞かねばならない。
 しかし、何とも理解できなければ自己にも厳しく、先輩には納得できるまで、厳しく問わねばならない。 この言葉の中には、おれについて来いという、ガムシャラだけもなければ、絶対服従というむちゃくちゃもない。 仏道の修行の道、一切衆生の道こそ差別のない平等の精神が、その中を貫いている。 この精神こそ、今日も私たち弘法の教えを仰ぐものの集まりの基本であります。


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真の実相を知る


  もし人がいまだあらゆるものの[密号名字の相] [真実語] [如義語]を理解していなければ、その者の言葉や思惟や修行などのあらゆる行為は、すべて誤った逆さまの考えであり、すべて誤った無意味な言葉なのであります。
  これは彼が真実の究意の[真理]を知らないがためである。

もろもろの事象
真の実相を理解しない者の
言葉や思想や行いは
すべて迷いであり
たわむれである

  もし未だ諸法の密号名字の相・真実語如義語を解らざるもののあらゆる言説。
 思惟・修行等はことごとくこれ顛倒なり。ことごとくこれ戯論なり。
 真実究意の理を知らざる故に。


ー吽字義ー  弘法大師 空海全集  第二巻  三三二頁

 奈良や京都の町並みを訪ねると、何か本当の郷里に帰った様な想いがするのは私一人ではないでしょう。古寺巡礼の若者が自身の心を捉えるのも、やはり日本民族の共通の過去、共通の文化の原点であり、日本国民、誰でも各々誇り得るものだからだと思います。
 ところで、偉大な歴史的遺産を前にすると常に一つのことが頭をよぎります。例えば、高野山の金剛峯寺や奥の院をはじめとして、あの荘厳極まりない寺院は人智は年々進み、文化はドンドン発展してきた筈なのに、果たしてこの様なものが現代、簡単に出来るのかどうか、建築・美術等すべてに於いて現在ではその模倣すら不可能に近いのではないか、文明やら文化の発展なんてあやしいものだなと思うのです。
 人類は火を利用することで文明が発達したといわれていますが、火をおこす方法には進歩がみられ、甚だ便利になりましたが、火そのものに変わる丸で違った発想は出てきそうにありません。
  我々の日常生活を衣食住と考えてみましても、その基本的な考え方は昔から大して変わってはいないのです。材料や素材等に進歩は見られますが、その機能や発想が丸で変わったと思われません。
 しかし、それも当然です。何故なら、この世界を構成する基本的要素である。
 地・水・火・風・空の働きそのものは不変であるからであります。
 では、人間の心は一体どれ程進歩があったのでしょうか。例えば今から二千五百年程前の実在の人物で”仏陀釈迦”の考え方はどうでありましょうか。これは現代に於いて丸で矛盾した歴史の遺物かというと決してそうでありません。それは、この世のあるがままの姿を我々にお説きになったからであります。真理に基ずいた考え方であり全く不変であります。
 一方、我々凡夫の考え方はどうでありましょうか。例えば、人間の善悪正邪の基準はどうでありましょうか。時代と共に、その時々の権力者の考え方に応じて、手の裏を返したように変わるということはなかったでしょうか。神聖なる裁判一つ取りましても、判例は時代と共に変化しているのです。
 人格は遺伝的要素もありましょうが、家庭環境・学校教育・社会教育・社会環境等、その人のその瞬間迄の凡ての条件が働いて形成されます。(昨今のバブル経済事件・政官界の挙悪事件・経済事件・青少年の数々の事件等全くそうであります)
 従って人間の心は十人十色、だれもが各々の主観で行動をいたします。もし、凡てが真理に基ずく価値基準によって、一切の現象をありのままに把握して行動すれば問題はありませんが、実際は各々が主観という価値基準により表現し、思いをめぐらし、行動をしている訳ですから、この世には間違いやら争いが絶えないということになりましょう。。
 真理を理解しない者にとって「俺は正しい、お前は間違っている」と言ったところで、それは迷いの中
判断であり、たわむれに過ぎません。しかし、私共はこうした「目くそは鼻くそを笑う」という愚かなことを毎日知らず知らずのうちに繰り返しているのではないでしょか。
 この現象界が浄められまして、少なくとも全ての人類が幸福感を味合うことが出来ますように、
 古き良きことをもう一度考えましょう!


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自分と他人

 この世界における生きとし生けるもの一切をみる場合にあたかも、自分自身のもののようにみるべきである。そのわけは、善人の用心は他のものを先とし自分自身のことは後にするからである。

法界無縁の一切衆生を観ずることなおし己身のごとし。
然る所以は、善人の用心は他を先とし、己を後す。
 ―三昧耶戒序―弘法大師 空海全集第五巻

 人生は楽しまなくてはつまらない。楽しく暮らすのが一番幸せな生き方であり、得な生き方であると考える人が、とても多くなっている。 一見、当たり前のように思えますが、・・・・  
 自分のしたいと思うことは、何がなんでもしなければ感情がおさまらない。私は不幸だ損をしたと思いこんでしまう。
 商売でも、企業経営でも、誰よりも多く利益を得なければと損とか、厳しい経営環境を乗り切るためには事業を拡大しなければと、潜在的に独りよがりな考えがないだろうか?
 自分が楽しむためには、他人がどう困ろうとおかまいない。他人どころ、自分の妻が、夫が、子供がどうなろうと、やもえないというところまで落ちこんでしまう。
 そこに、人間関係の悪化と家庭の崩壊と社会の混乱がまきおこされる側面がある。
 正当な権利の主張や社会正義、平和、民主主義をめざすことであるならば、それは一個人だけの利益にとどまることでないから、人間を悪化させることも、家庭を崩壊させることにもならないはずである。  今日、社会道徳の乱れは甚だしいものがある。テレホンセックス、援助交際から独身主義の間違った美徳感など昨今の世相の変化などなど・・・・ 
 己自身(個人・団体)にとって得になるか損になるか自分にとって迷惑になることかどうか、関係あるかどうかによって、一方的に判断されてしまうからである。 
 相手の立場など全然問わないのである。相手がそのためどんなに迷惑を受けるかどうかも考えないのである。 
 いつも自分おことだけ考える。自分にとって得になることだけを行っていれば、ますます得になると考えている。 
 そのようなことでは、うまくいかなくなることが解っていても、多くの人達が損、得で生きているので同じようにならされてしまうのである。 
 どうせ私だけでないのだから、もっと上手にやっているものもいるのだからなどと自分に言い聞かせてしまうのである。 
 自分一人だけが損、得をはなれて生きてもつまらないし、そのようでは仲間はずれにされ、友達からも嫌われてしまうと考える。 
 今、多くの人達がそんな気持ちで生活しているのである。大師の時代でも全く同じようであった。天皇家においても藤原薬子の事件のように親族間の争いがすさまじかったのである。 
 大師はそのようなみにくい人間の争いをなくしていくには、本来自分も他人もなく、生きとし生けるものは、お互いに生かされあいのなかにしか生きていけないのであるから、他人のことも、自分自身のことのように考えていかねばならないと語りかけている。 
 自分のことよりも、他人のことを先に考える人が、立派な人であるとも述べている。
今は、他人のことよりも、自分のことを先にする人が、立派な人として出世する社会になってしまっている。 
 生きとし、生けるもののなかに、自分を見い出していくということで、生きていけるようになるには、深い信仰心にささえられねばならないのである。


1997.9.6日マザー・テレサの死を悼み冥福を捧げる。


祈りは信仰心を深め  信仰は愛を育む

マザー・テレサ

二利につきる


仏教広大無辺なものであるが
一口にいうと
自利と他利につきる。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と、宮沢賢治も仏教の本質をとらえて表現した。「自利」と「他利」を円満することこそ、古来、仏教の大道である。
 大師がこのように喝破されたのは、約二年間の唐留学を終えて、大同元年(806年)八月に帰国十月に時の政府に対して、その成果を報告した『御請来目録』の中においてである。その大師にとって、「自利」とは真言密教によって永遠の幸福を得ることであり、「利他」とはそれによって人々の苦悩を根本的に救済することに外ならなかった。大師以前の即成仏教では、無限の生死輪廻を重ねて悪戦苦闘しない限り,煩悩を克服し、窮極のさとりに到達し得ない、とされていた。それに対して大師は、この世の父母から生じこの身に、永遠の幸福を実現することができる(即心成仏)・・・・・・・と、高らかに宣言されたのである。
 この現実の人生・世界において、二利を円満させようとする大師の、真言密教の立場は貴重である。
 卑俗な欲望を頭から否定することなく、それを昇華させながら、永遠の世界への覚醒をうながすという密教の方法は、現在の私たちにも多くの示唆を与えてくれるようである。
 自利や他利の「利」ということば自体、利害得失にさとい人間の機微を何と適切にとらえていることだろう。たとえば、商人たちが自らの目先の利益だけを追求して、顧客へのサービスを怠り、商品を高く売りつけてばかりいるとしたら、やがて彼らの店は消費者から見放され、さびれていかないだろうか。
 他者を尊重し、その利益をもはかることが、同時に自己の利益にも結びつく、といった「二利円満」の法則は、このように最も世俗的な次元でも、みごとにはたらいているのです。
 惠果和尚は「貧を済(すく)うには財をもってし、愚を導くには法をもってす。財をつまざるをもって心とし、法をおしまざるをもって性とす」といわれるほどの人柄でした。真言密教とって「貧を救うに財をもってする」社会活動と、「愚を導くに法をもってする」宗教活動は不二であり、決して別異のことではありません。大師が目指した社会福祉には、当然のことながら、この両面が二而不二(ににふに)的にそなわっているのです。
 大師は弘仁四年五月の『御遺誡』においても、二利円満、四恩抜済こそ菩薩の道であるとして、宗教生活と社会活動の相即性を強調しています。この『御遺誡』は真言行者のあるべきようを端的に説示されたものであることを忘れてなりません。「二利」とは自利と利他の二つをさしています。文字どおり、自分の利益と他人の利益ます。その利益は現実的な利益から、究極の利益すなわち示高至福の境地までを含みます。大師が請来された『大聖文殊師利菩薩仏刹功徳荘厳経』には、「私はこの世で自分だけが速やかに至福をうるようなことはしない。たとえ一人でも、苦しむ悩む衆生が残っていれば、私は最後まで、その衆生のためにに踏みとどまろう」という文殊菩薩の誓いの言葉が見られます。
 『菩薩戎本』のかでも、あらゆる衆生の苦痛を自らの苦しみとして受けとり、これを除くことこそ菩薩の道と説かれています。それが二利円満ということなのです。大師が高野山万灯会を行ったときの願文に、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」と誓ったのも、さきの文殊菩薩の言葉と全く同じことを指しているのです。大師のあらゆる行動が、すべてこの二利円満、四恩抜済の軌跡であったことは『性霊集』所収の大師の遺文をみれば自ら瞭然となりましょう。
 菩薩たるものの心すべきことは、自ら進んで衆生のなかに入り、衆生と苦楽をともにしながら、彼らを導き救うことにあるのです。


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