. 連載【1】


本多碩峯
紀州が育んだ偉大な明恵上人

はじめに

 私は出家する機会をえて、伝統仏教の真言密教を学んでいく内に紀州出身の明恵上人に非常な興味を抱きはじめました。 
 その理由に、明恵上人は親鸞上人と年を同じくする人でありながら、二人の青年時代は末法の時代で、我が国は非常な混乱期にあって、親鸞上人は教団を結成する道を進み、明恵上人は、聖の立場をとり、僧官・僧位受けず自己の修行を通し仏道を歩む姿勢に共感を抱いたこと。
 明恵上人は幼少の頃に両親を亡くす環境に育み、大変な苦難の道の中を素晴らしい仏道を歩むんだ功績に触れたい一心だった。 
 私の亡祖母本多こちよは阿弖河庄(あてがわしょう)の本家で生まれた(現当主保田俶・有田郡清水町久野原在住)関係で、父から明恵上人の話を聞いていたこと等で念願の上人の遺跡をたどり、上人の功績を学ぶ機会を得ましたことを深く感謝いたします。


人は阿留辺幾夜宇和という七文字を持つべきなり


歓喜寺百八段の上品堂より)

歓喜寺の由来
 当山は比叡山横川の恵心僧都(源信)が熊野参詣の為紀伊に下向し、この地に九品の浄土を感得し、衆生済度の誓願をたて、寛和二年(九八六)に開基浄土念仏の信仰が本都に入った最初の道場である。
 かっては境内八丁四方にわたり、九品浄土を模し、上品堂、中品堂、下品堂その他諸堂善美を尽くしていたが保元の頃衰微していたのを明恵上人の寂後地頭湯浅宗氏が「この地は上人の生誕地である」として上人の遺弟義林房喜海を迎え中興し歓喜寺と称した。
 湯浅家の庇護のもとに寺領も多く隆盛をきわめたが、その後衰退していたのを永禄年間
(一五五八〜)松誉素川が再興して浄土宗となりいまに及ぶ。
 
 明恵上人(高弁)は承安三年(一一七三)金屋町歓喜寺に誕生。
 父は高倉院の武者所、平重国、母は湯浅権守宗重の第四女、上人は幼少にして父母に死別し九歳、京都高雄に登り上覚上人の弟子となり勉学修行に専念、尚静閑の地をもとめ郷里に帰り所々修練に(そのゆかりの地が明恵紀州入所遺跡)上人三四歳後鳥羽上皇の院宣を以て、栂尾に高山寺を興し華厳宗興隆の道場とす。
 自然を友とし樹下石上に修行また著述に励み釈尊を追慕し仏教に新しい生命を与えんと精進された高僧である。
 又栄西から贈られた茶の実を宇治に植え、紀州にも伝えて『茶の祖』と仰がれ承久の乱
(一二二一)以来執推北条泰時は上人の徳を慕い治国の要を聞くなど老若男女を教化す。

国定指定の重要文化財
  木造地蔵菩薩座像 1木造  平安初期(貞観時代)作(下品堂)
  
  木造阿弥陀佛座像 奇木造  鎌倉時代の作(上品堂)
明恵上人の生誕から生い立ち
 明恵上人のおいたちと幼少の頃のことを極めて簡単に記述させていただきます。
 明恵房高弁(初名成弁)は平安末期の承安三年(一一七三年)正月八日紀州在田郡石垣庄吉原村歓喜寺の地(現和歌山県有田郡金屋町大字歓喜寺)で誕生した。(浄土真宗の開祖、親鸞上人もこの年の五月に生まれている)。
 
歓 喜 寺(下品堂)
 田中久夫著書「明恵」:
 父の重国は、京都の嵐山」の法輪寺(虚空蔵菩薩を本尊)に詣で、子供がほしいと願い、また母は京都の四条坊門高倉の宿所において承安元(二の誤り)年四月のころ妹の前山の女房(良貞の妻)と一緒にねていて、甘子を得た夢を見、妹は大甘子二つをもらい、途中でうばわれた夢を見、それから懐妊したという。その前に母は、六角堂(頂法寺)に、万度詣をし、一万巻の観音経をよみ、わが後生をたすけ、仏弟子として尊からん子を給わりたいと祈ったという。承安三年(一一七三)癸巳(きし)正月八日に誕生した。母は懐妊のときから、もし男子ならば高尾の薬師仏にまいらせて、仏弟子としたいと考えていたので、童名を「薬師」といったが、後に「一郎」と改めたという(「行状」)。高尾の薬師仏は、神護寺の本尊として今も伝わり、延歴年間の作といわれる。この話では、生まれる前から高尾に登るように運 命づけられていたことになる。・・・・・・・・・・・
 父は平重国(石垣庄の庄官)、母は湯浅庄の湯浅(保田とも云う)宗重の四女である。治承四年(一一八0)正月、母に死別し、続いて同年九月、父を上総(千葉県)の合戦で失って孤児となった。
 上人八歳の年であった。両親を失った上人は、母の姉(宗重の長女)の嫁ぎ先田殿庄、崎山兵衛良貞の許にに引き取られ、一ヶ年間養育された。そして、九歳で高尾の神護寺に入るのである。
 高尾には、母の兄弟(宗重の四男)上覚房行慈上人(上山氏湯浅系図では浄覚行慈上人としている)がいたから、崎山家(現京都在)では、上人の伯父(あるいは叔父)の御坊に託するが、最も適切と判断したのであろう。
 田殿庄の崎山氏と言えば、最初に明恵上人の養育者として文献に現れるが、湯浅党研究に重要な史料である「崎山文書」の所伝者と知られている。 
さて明恵上人を語るには崎山氏について、吉備町誌上下引用して述べます。崎山氏は、古代在田郡司の職を累代継承してきた紀氏(渡来民族で和歌山市秋月にある日前宮社、宮司は歴代紀氏・土佐日記の作者紀貫之もその一族)の後裔でなかろうかと考えられる。古代在田の紀氏の居住地は、田殿庄の地であったと云う。この紀氏を先祖とするのが、田殿庄の崎山氏であろう。 
 さて、養父の崎山良貞の死去は、明恵上人が二十九歳の時、元久元年(一二0二)十二月十日である。その一ヶ月前の同年十一月、明恵上人が、栂尾から病気の良貞を見舞いに下向している。その四年後の承元二年(一二0八)冬のころ、栂尾に何かわずらわしいことがあって、上人はまた紀州に下向した折、良貞の未亡人(上人の伯母)信性尼から、崎山の屋敷を亡夫良貞の菩提を弔うため寄進され、仏像聖教安置の所とした。後山脚に三間一面の小堂を建立し、旧宅を同行同信者の修行の道場とする。
 平家のほろびた文治元年には上人は十三歳で高尾の神護寺にあって密教の行法にに精を出していたのである。その後住着いたであろう、平家の落ち武者の里は現有田郡清水町、それに上人が幼少の頃育った現有田郡吉備町大賀畑の岡崎氏一族(岡崎博行氏は妻の義兄)がそうであると云われている。(吉備町誌による) 鎌倉旧仏教・鎌倉仏教の研究家田中久夫氏はご自身の著書「明恵」の中で明恵は、南都系仏教の代表者の一人として知られているが、もし同年の親鸞と同じく、明恵が比叡山にのぼっていたら、どうなったであろうか。その活動は、いわゆる新仏教の一部として語られたかもしれない。 
 明恵は、いわゆる遁世(とんぜい)の聖の立場をとり、僧官・僧位をうけなかったけれども、その晩年には、朝廷・貴族の帰依をうけることが多かったといえるであろう。それは、かの新仏教の代表者の法然房源空が、受戒の聖として九条家におもむいたことと相似たところもあろう。
しかし、法然のように、教団の首領として多くの人々をあつめるところもあろう。
 菩薩の気持ちを持って衆生を思うことはつよく、俗人の信者に熱心に教えを説いたが、ひとつの教えをもって教団をつくろうなどとという考えはなかった。いくらかなのまじめな同行とともに、仏法を行ずることによって仏菩薩の恩にこたえ衆生を救うことになると信じたのであろう。・・・・・・・・・・・・・・・もう念仏でなければだめであるなどといわず、反対に少しでも聖教のこころを身につけたいとはげむ、積極的な態度をとった。この点では、宋朝風の禅をとり入れて仏教を再興しようとした人々にも通じるものがある。 
 明恵の態度は実践的であり、最も信をおもんじたのである。同じ信といっても、浄土門の場合とは違うという議論もなりたち得るであろうが、教えを何とかして身につけようと努力して行く態度としては、一応共通のものを見いだし得ると思う。この点では、いわゆる新仏教と通じるもので、この見地からすれば、新仏教とか旧仏教とかいう区別は、必ずしも適切でない。
 鎌倉時代の前半の宗教の世界では、その信を根本とする点が最も大きい流れであろうが、その主潮を最も純粋に代表するひとりといえると信ずる。その生涯は、仏道を行ずることをつらぬいた一筋の道であったのであろ。

私は明恵上人の生まれ故郷紀州での行実を中心に現在の遺跡を歩き、上人の功績を発表させて戴きます。                                  

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連載【2】
ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
歓 喜 寺 
 
歓喜寺上品堂への百八段坂
 吉原の石垣尾神社は龍神街道筋にあたり、旅人の通行がはげしかった。いまより約千年前、寛和二年の事折からの夕立に見まわれた一人の旅僧は、石垣尾神社に詣でしばしばの雨宿りをしていた。やがて雨も止み、薄陽が射すとともに、今まで立ちこめていた雨雲は、いずこともなく消えて、そこには洋々たる有田の流れが光っていた。 
 ちょうどその時、この有田川の向こう岸に、紫の雲がたなびき、いとも清浄な山々がつらなっていたのである。「これこそ我が探し求めた浄土の地にちがいあるまい」と小踊りして喜んだという。やがて有田川を渡り清浄きわまりないこの地に、お寺を建てることになった。これが歓喜寺の始まりであり、この旅僧は有名な恵心僧都だったのである。 
 この恵心僧都という人は花山天皇の信任厚く、花山院の祈願所として建てられたということである。寺領八丁四方の中に上品堂(ジョボンドウ)中品堂、下品堂があって、九品の浄土を模し、浄土宗道場だったそうである。石垣尾神社よりこの地を発見「小踊りして喜んだ」ことから歓喜寺と名付けられたと伝えられるが、その後一時は荒廃、湯浅宗氏がこれを再建明恵上人の法弟、義林房喜海をここに住まわせ、真言宗に属していたそうだが永禄年中浄土宗、鎮西派に復帰して現在に至っている。恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来、地蔵菩薩は、重要文化財に指定されており、なかなか立派な尊像である。 
 本堂正面には蓮池があって、そばには下品堂は昔の鳥屋城を解体して立て直したと伝えられといる。上品堂はここより急な石段を登りつめた山頂にあり、またこの上品堂より南、山づたいに中品堂があり、粗末なお堂に石像阿弥陀如来が祀られている。

ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
明恵上人 

 
 歓喜寺は明恵上人の誕生地であり、承安三年(1173)ですから平安時代の終わり頃である。父は平重国という武士で、母は有田の豪族湯浅宗重の娘だった。はじめこの夫婦に子がかったので、法輪寺(京都)や六角堂(京都)にお参りして授かったのが上人と言うわけ。 
 上人八歳の正月、母は病気で亡くなり、その年の九月、父は関東の戦いに出陣して戦死した。そこで伯母に養われることになり、田殿(吉備町)の崎山(大師山)に移った。そして翌年出家を志し、京都高尾の神護寺に居る伯父の上覚上人をたよったのである。 
 上覚上人につれられ始めて文覚上人にお逢いした時「この児は、ただ人にあらず、文覚に賜った大事な弟子だ」と言われたそうである。たしかにそのとうりで二十三歳の時には立派なお坊様になられていたが、静かな山中にこもり、尚一層の修行を重ねたいと数人の弟子をともない、有田に帰ってきた。始めは西白上(有田郡湯浅町栖原)東白上(栖原)で修行し、つづいて筏立(歓喜寺)、糸野と修行を重ね、三十四歳の時京都に帰られたのである。以上有田での修行地七ヶ所に誕生地を加え、八所遺跡として史跡に指定されている。 
 京都に帰られた明恵上人は後鳥羽上皇より、栂尾の十無尽院を賜り高山寺を建立した。明恵上人は新しい宗派を興さなかった。が、釈迦仏教を研究され、書き残された教典などから、日本仏教界最大の高僧と言われている。尚また私たちにお茶を飲む効用を教えてくれたのも明恵上人であり、そしてまた「あるべ、きょうわ」という日常の教えは、世が変わりどんなに時代が変わろうとも、変わることのない自然の法則にマッチした私たちへの教えである。
関連資料
ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
守 が 滝
  明恵上人は歓喜寺の館で誕生した時、父、母の喜びは格別で、早速守り娘を雇い入れ、生まれた子供(薬師丸)の世話をさせたのである。この守り娘が有田川の水流でおむつの洗濯をしている時、不思議にもその汚水が「南無阿弥陀仏」の六つの字になって流れたと言われている。何も知らない無学の守り娘ではあったが、仏様の御字だと気付き、ひょっとしたら仏様の生まれ変わりかも知れないと思い、大事にお守りをせなければと心に誓ったそうである。ところがある時薬師丸を背負って吉原堤を散歩中、石につまずいて倒れ、運わるくもそこに竹の葉があり、その竹の葉で薬師丸の目をついてしまった。早速館に引きかえして、医者よ薬よと大騒ぎの最中、日頃「仏様の生まれ変わり」と思って大事にしていたのに、こんなことになってしまったとは、死んでお詫びするしかないと思いつめ、先に南無阿弥陀仏の六つの字を発見した洗濯場に来て、流水に身を投げ自殺したのである。さいわい薬師丸は大事に至らずにすんだそうであるが、守り娘は二度と生きかえらず、ねんごろなとむらいをすませたあと、里人は守り娘をあわれみ、小さ な詞を建て「守り娘」と名付けて、守り娘をお祀りしたのである。ところがこの守が滝様に子供の夜泣き、寝小便、かん虫等子供の病気に関する祈願は、必ず聞きとどけてくれるという風評がたち、お参りする人があとをたたず、現在に至るも祈願参り、お礼参りの方々大変 多いと言うことである。この守が滝様より少し吉原側に、東西に走る小路があり、ここにオッパの地蔵様と呼んでいるが、五輪塔の頭(空風輪)が二つ祀られている。いつも真新しい花と線香が供えられ、お参りする人が多い。これも明恵上人をお守りした少女が上人をおんぶして、このあたりを散歩下のでつけられた名前らしい。ここらでおんぶのことを、オッパと言うのである。ここも子供の病気は何でも治してくれると言われている。

ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
大 師 山
 井の口に内崎山という山がある。通称、大師山と呼ばれ弘法大師が祀られている。この山は田殿大橋の北詰から直ぐ右手の山で、有田川を見下す絶景の場所である。本堂までの石段の両側には八十八ケ所の石仏(お大師)が祀られていて、特に四月桜の季節には花見客でにぎわっている。ここの鐘楼は実に立派なもので以前は四七0貫の釣鐘が吊されていたらしいが、戦時中、供出して現在では終戦後、新たに造られたものである。
 さて、ここに伝わっている話では天長年間空海上人が天満の青蓮寺に逗留していた頃、この内崎山に登り、えんえんと高野山より流れてくる有田川を眼下にして、清浄きわまりないこの地に十一面観音菩薩をきざみ御祭りしたのが始まりで、その後、田殿の主護職にあった、崎山良貞氏がここに住み、十一面観音菩薩をお守りして来たのである。ところが良貞氏が亡くなったので、婦人であった信性尼はここにお寺を建て、法蔵寺と名付けられた。
 信性尼は明恵上人の伯母であり、八歳の時、父母に死に別れた上人は、この伯母に引き取られ養育されたのであった。ですから親代わりの伯母がお寺を建て、そこに上人を迎えたのであり、ここで修行中一刀三礼の空海尊像をきざみ、お祀りしたと伝えられている。
 その後は何の話もなく、文化年間、田殿中村(現在の尾中)の崎山九郎右右衛門の所有山であったが、これを長田の花光氏が買いとり、八十八ケ所をおまつりしたのである。次に安政二年に至り、長田浄教寺住職、清空和順氏の代に、花光氏より買いとり浄教寺別院となった。当時、檀家の一人に島田平右衛門という人がいて、特に大師信仰者で、御堂庫裏共に荒廃していたのを修理したのである。こうしてこの山は次々に人の手に渡った為か、明恵上人修行の古い卒塔婆が建てられていたそうだが、現在では見当たらない。只そうとう古そうな五輪石と、板碑らしいものが残っているが、空海上人、明恵上人と、つながるかどうかわからない。
 その後明治の始め、浄教寺の住職吉信信端という人は、老後をこの山で過ごしたのである。この人は大変偉い人だったといわれ現在のように名高い立派な御大師様にしあげたそうである。毎年、八月二十日の夜は、夏祭りがおこなわれ大変なにぎわいである。有田川原一面にくり広げる花火祭。露天商人も軒を並べる。有名な納涼祭である。 

ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
施 無 畏 寺

 
 栖原(有田郡湯浅町栖原)の施無畏寺について紹介しましょう。このお寺は湯浅一族の森九郎景元が建立されたもので、明恵上人の開山と記されている。創建当時は本堂、開山堂、堂塔ならびに塔頭(僧侶の住する子院)六坊をもつ大寺院だったそうです。
 ところで建立者、森九郎景元と明恵上人は従弟の間柄であり、上人二十三歳の時京都の高尾から有田に帰り、ここ施無畏寺裏山、西白上峯に篭もり、三年間修行された場所である。この修行中上人一行を裏で支えたのが森九郎景元であった。この景元は明恵上人の晩年、上人修行のこの地にお寺を建てたのであり、その落慶法要には明恵上人病気療養中なれど参列、法要の指揮をとられたのであった。
 この時、湯浅一族はことごとく参列しており、上人にとっては最後の別れとなったのであり、京都に帰られてから間もなく貞永元年(一二三二)一月十九日、六十歳の生涯を閉じられたのである。ところでこの施無畏寺も、豊臣秀吉南紀攻めのおり、伽藍を焼かれ、荒廃したと伝えられている。
 その後、南龍公(研ぐ側頼宣)の保護を得てより、やや面目を改められたと書かれている。海岸よりこのお寺に登って行けば、左側に忠魂碑、薬師堂があり突き当たって本坊、本坊右手の坂を登りつめたところに本堂、開山堂、鐘堂など奥の院にふさわしい立派な建物が並ぶ境内である。私ははじめて、このお寺にお参りした時は若葉の季節でちょうど五月八日の前日であり、住職の御内義と思われる方が草花をつんでいた。
 遠くで出漁のポンポン船の音が、この寺内にこだまして、何とも言えない無畏の世界に引き込まれる思いがしたのであった。その帰り本坊のすぐ上に座禅石と言うのがあり、おそらく上人は座禅をくんで修行したのであろうか、何気なくみていると二、三人の子供がきて、次のような事を教えてくれた。
 それは上人が、この石より、
一飛びしてカルモ島に右足を掛け、また飛んで左足をタカ島に掛けて飛び渡った。そして、タカ島にお寺を建てたのですと言う事であった。

ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
島への手紙

 
 明恵上人は、白上の峯で修行中、弟子の喜海と道忠を連れ、小舟に乗って黒島、鷹島を廻り、カルモ島に立ち寄った際、五日後に迎えに来るようにと船頭に言い含め、三人が島に残ったそうである。
 島の南端に西に向かったほら穴があり、この中に数枚の板を掛け渡して仮の庵とし、5日間の修行をつまれたそうです。上人は晩年このカルモ島をなつかしみ、栂尾から島への手紙を送った。
 文面の一部に「磯ニ遊ビ島ニタワムレシコトヲ思ヒ出サレテ忘ラレス・・・・・・・又其レニ候ヒシ大桜コソ思ヒ出サレテ恋シウ候ヘ」と記し、手紙の終わりに「恐惶敬白 某月日 高弁伏 島殿へ」と記された。使者がこの手紙を誰に渡したらよろしいかと上人に訪ねると、カルモ島に行って島の真ん中で「栂尾の明恵房のもとよりの文にて候」と大声を張り上げて打ち捨てて帰りたまえと申されたそうである。これが有名な島への手紙である。


ふる里の泉「有田の民話集」(鳥居 勝著)より
鷹島と明恵上人
 唐尾の真向かいに浮かぶ鷹島には、明恵上人の遺跡がある。上人は湯浅の白上峯(栖原)で修行中、この鷹島に渡られ修行を重ねられたのであり、打ち寄せる波頭を見つめているうち、行きたいと念願していたインドの釈迦遺跡がまのあたりに見えてきたと伝えられている。
 うと我に返った上人はそこに小石を拾い「釈迦が下さった遺品」として持ち帰り生涯大事にしたのであったが、晩年に「吾れ去りて後に偲ばん人無くば飛びて帰りね鷹島の石」と歌が読まれている。
 この上人が修行された場所は、堂の浦というところで、上人がなくなられてから約百年ばかり後に、お堂が建てられたのであり、屋根には元応二年の銘のある瓦が使用されていたそうである。ところが何分にも島であるため、参詣もままならぬことから、このお堂が広八幡宮に移されていた。
 ところが明治初年の神仏分離令により、このお堂が法蔵寺に移されたのである。見た目には大変立派なお堂であったが、解体してみると朽ち果てていて再建はならず、その瓦だけ使用されたそうである。この時、風変わりな二枚の瓦は大切に保存してくれている。法蔵寺のお話で紹介し通りである。
 この他鷹島には大蛇が住んでいると伝えられ、ある時は衣奈の黒島へ、又ある時は広の明神山へと、海を泳ぎ渡る姿を見たという話も残されている。又ある人はこの島に遊びに来たところ、胴回り二十センチ以上と思われるカタビラ(脱皮した皮)を発見、早速逃げ帰ったという話もある。

 
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(続く)
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