母の介護に教えられて

この文章「この花会」 (電話番号 075−571−0387)の第十集「この花」に掲載されたもの、ご本人西家保夫さん並びに「この花会」の許しを得て掲載させていただきました。

西家保夫さんの写真彼は現在、種智院大学 で聴講生として空海密教の勉学に老後の余生を送っている。

 ご紹介させて頂く西家保夫君とは約三十年前に日本電子材料で電子ハカリのセンサー部の実用化に向けての発光ダイオードと受光ダイオードの特性試験に温度補償回路の設計と言っても、当時の発光ダイオードは特性にバラツキが大きく結果的には完成しなかったが、S社の事業部長が当開発室を度々尋ねられた。
 この開発に私と西家君が取り組んだのですが、実質的には西家君が一人、向学心に燃え素晴らしい青春のエネルギーを蓄えられた。
 彼の両手は義手で研究に必要な半田コテ、ニッパー、ペンチ、は勿論のこと実験用バーナーに点火する作業、部屋の掃除何一つ不自由なく、誰よりも綺麗に作業を成し遂げた。
 中学時代に事故で両手を無くし、大阪府立大手前高等学校・通信教育部を中退、大好きな電子技術を独学でマスターしトランジスターは勿論、IC回路にも見事な技術知識を持っていた。
 彼とは会社の近くの赤提灯でお酒を飲んだ仲間である。彼の苦手は唯一つ、ワイシャツの上のボタンが自分で出来ない事だ。私の家に泊まった朝、まだ寝ている私たちの寝室に声がかかる。西宮から住吉の家に早朝帰るために、几帳面な彼はワイシャツのボタンをとめる必要があった。
 彼の研究データーがS社の部長の工学博士の論文資料に役立った事を知る。





母の介護に教えられて
西家法教(保夫)
 私が両手を事故で無くしたのは昭和三十六年の三月の事です。当時私は15歳でありました。それから二年程の間いろんな本を読みあさったので。その中の一冊に「無手の倖」常岡一郎・大石順教著に深く感銘を受け、それを糧に今日まで四十数年、義手と共に歩んで参りました。
 そして八十九歳の高齢な母の介護が必要になるようになりました。そうした中で私が炊事と洗濯などの主婦業をするようになり、それからの母は盛んに編み物をしだしました。その後、病院以外の外出もなくなり、美容院へも行かなくなり頭の髪が伸びて見苦しくなり、私が昔父の頭を散髪するときに使った電気バリカンで母の頭を散髪して、そのあとで洗面所でシャンプーで母の頭を洗った。母の頭は小さくまた髪の毛も少なくなっていた。散髪をしてもらった母は喜んだ。それからは見苦しくなれば散髪をした。
 そんな中の七月の午後に母は急にお腹が痛いと言い出した。母を名張にある胃腸病院へ連れていった。その翌日に母は疲れたのか、ひたすら眠った。しかし、そのあと失禁がひどくなった。その後母の下着を一日三回も洗濯した。また敷き布団にも地図を描いていた。母がトイレに入っている間に敷布団と敷布を取り替えた。私は敷布団のシーツの下にビニールシートをかぶせた。そして介護用品店でリハビリパンツと尿とりパットと洗濯物の尿のにおいを取る洗濯用の消臭剤を買ってきた。そして母に自分も辛いやろと言ってこれに替えようと言うと、母は納得したのかそれを付けてくれた。十日ほどもしたら失禁が治ったのか、母は普通のパンツに替えていた。しかし、少し不安があるのか尿とりパットだけは着けていた。母はこのころからよく私にパンツの中に鹿の糞を少し大きくした固まりのウンコがコロリンと出て困ると言ってぼやいた。そのとき私は母にまあべちゃべちゃよりましやないかと言ったら、母はそんなこと言うてくれるのはおまえだけやなといって笑った。その後この鹿の糞のようなウンコはずっと続いた。
 年が明けた一月下旬から母はお金の計算もおぼつかなくなった。その間も母は自室の横の南側の安楽イスに座ってひたすら編み物をしていた。そして三月のある日に母は風呂に入るとき手が滑りやすいと訴えた。私はすぐに介護用品店で風呂用の手すりを買って取り付けた。それから四月の中頃に今度は湯船の中で滑りやすいと言い出した。私は早々いつもの介護用品店で滑り止めマットを購入して帰った。その下旬頃から体に湿疹が出だした。そこで榛原の病院に連れて行って、塗り薬(頭用、顔用、体用)と飲み薬」をもらって来た。この病院への通院は七月中頃まで続いた。その間私は毎日風呂から上がった母の洗濯物を洗濯機にかけておいてから、母の頭から顔と体(背中、胸、足の先)と塗り薬を塗った。この薬の塗る作業が約三十分〜四十分近くかかった。いつの日か自分で塗ったらと言ったら、母は私の顔を見ておまえ塗ってやとせがんだ。たぶん母はもう自分で塗ることが鬱陶(うっと)しかったのだろう。九十一歳にもなれば無理もないかもしれない。また、このころ例の鹿の糞のようなウンコが湯船の中に落ちていたり、洗い場に落ちていたりした。またある時は洗い場の排水溝のフタに踏みつけたようにこびり付いていたりした。またある時はトイレから母の部屋の間に茶色い物が点々と付いていることもあった。多分母は自分で落としたウンコを知らずに自分の足で踏んだまま部屋へ行ったらしい。私は只黙って処理をした。時には母の洗濯物の下着の中にこのウンコが付いていたりして、私は知らず洗濯機を回す事もあった。一度は母に言ったが、母はそれを見ても何の反応も示さなかった。母の痴呆が進んでいて理解出来ないのだろう。それからは、そういう事があっても何も言わずに片づけた。
 七月の末に母は急に寝込んだ。食事はしていたが床についてから母の左足が少し腫れていた。以前の高取町の漢方薬をかってきて飲ませた。一週間ほどで治った。しかし、母が寝込んでから朝と夜の最低二回はリハビリパンツと尿とりパットの交換が加わった。この交換がまた大変忙しい。母がトイレまでの行きは這って行くが、用をたしている間に新しいリハビリパンツと尿とりパットとビニール袋を用意して待機する。母はリハビリパンツを自分で下ろすことが出来るが、この頃すでに自分で上げることが出来なかった。出てきた母の後ろに回って、母の手をトイレの入り口に取り付けた手すりに持たせておいて、私は後ろから母に右足を上げてと言って母の足が上がったところで、すかさず右足からリハビリパンツを外し、次に左足を上げてと言って同じように外し、今度は同じ要領で新しいリハビリパンツと尿とりパットをはかせる。パジャマのズボンも同じ要領ではかせるのである。そして抱きかかえるようにして寝床につれて行くのである。
 そして、八月の中頃ようやくは母は風呂に入りたいと言った。私は母にヘルパーさんに来てもらおうかと聞くと、母はいらないと言った。今の母を見ていると母が自分で入浴することは無理だと考えた。かといって私の義手で母を抱えて湯船につかることは出来ないと考え、まだ八月なのでシャワーでもいけると考え、早々浴用シャワーイスを買ってきて母を浴室に連れて行きシャワーイスに座らせて、スポンジに石けんを付けて母の体を洗いながらシャワーをかけた。この入浴を何回かするうちに例の鹿の糞が、パンツをはかせる時や、脱がせる時などに床に落ちた。私は素早くトイレの紙で拭き取った。母はそれには全く気づいていないようだ。九月の下旬には寝床で大便をしていた。トイレ用のクイックルの紙で汚れた所を拭き取って、新しいリハビリパンツに交換し敷布団のシーツも交換した。そしていつものように入浴させた。母は体重を量りたいと言ったので、母を体重計の上に乗せて計った。それからあと母をイスに座らせ、その間に母の洗濯物を洗濯機にセットしてキッチンきて見ると、母が体重計から倒れて行くのが見えた。支える間がなかった。母はまた自分で体重計に乗ったらしい。倒れるといっても尻餅をつくような格好だったので、抱えるようにして寝床に連れて行きお尻に湿布して寝かせた。
 その頃を境にして度々意味不明の事を言った。決まって朝である。母は緑さん(母の姪)はもう帰ったんかと私に尋ねた。私は夢と違うかと言ったらその時は納得した。十月に入ってから私は母の介護の申請をして来た。介護の認定を受けておれば入浴サービスだけでも受けさせてやれると思ったからだ。その頃すでに母は自分の力では起きあがれなかった。私が母の背中を押してお尻を上げて起こすのだが、私の手が両手とも義手のため直接押せない。そこで薄い座布団を背中に当てて母の上体を起こしておいて、浮き上がったお尻の下に背中に当てていた座布団を滑らすようにお尻の下に放り込んで、母のお尻を落ち着かせる。そして座布団の両端を私は義手で掴み座布団に母を乗せたままトイレの入り口まで滑らすように引っ張って行き、今度は座布団に乗せた母をお尻ごと持ち上げて起こすのである。用を足したあとは先に述べたパンツ交換をするのみである。ごみ出しもリハビリパンツを使いだしてから今までより倍以上あり又結構重かった。そして母はキッチンで又倒れたと言うより小さい子供が転ぶような倒れ方であった。不思議と骨折などはしなかった。そして、翌日役場から介護認定のための調査に来られた。調査の人は私に会うなりどないしてはるんかなと思ってましたと言われた。そのあと母と会話して帰られた。そして翌日の朝母はまたトイレでしゃがみ込むようにおっちんしていた。私は母を抱え上げて大丈夫かと尋ねたら母はうんと答えた。用を足して出てきた母のリハビリパンツを交換してから、母の部屋に連れて行った。この日は介護認定のための医師の診察日だったので、母に医者に診てもらおうねと言うと、母はうんとうなずいた。しかし、そのころの母はもはや自分で肌着や服を着ることが出来なかった。仕方なく私は肌着や服を着せズボンを履かせて、玄関まで抱えて行き車に乗せた。榛原の病院では医師に私は母の介護申請の診断と、二〜三回転んでいるのでその方の診断と併せてして下さいとお願いした。その日は湿布薬だけもらって帰った。そして翌日トイレにもう一つ手すりを取り付けた。そして二十二日の朝母はまた緑さん(母の姪)はもう帰ったんかと私に尋ねた。私はだれも来ていないと言うと母は回りをきょろきょろ見渡した。以前とは少し違っていた。それからいつものように母のリハビリパンツを交換して、母を寝床に連れて行ってから交換したパンツの片付けをしていたら、母が寝床から私の方を向いておまえにそんな事までさせてなとポツリと言った。私は片付けてから母にそんな事気にせんでええと言った。それから十時前に晩のおかずを買って来ると言って、いつものように母の枕元にメモを置いて玄関に降りると、いつもと違ってその日にかぎって、母は寝床から這い出して来て部屋から顔を出していた。私はまたいって来るわと言うと母はにっこりしながらウンとうなずいた。それから昼前に帰宅してみると、母は私の顔を見るなり泣きながら、おまえどこへ行ってたんやと訴えた。
 寝床に戻った母は姉さん姉さんと呼んだり、父さん父さんと今は亡き父や母の姉を目の前にいるように手をさしのべて叫んだ。そうかと思うと寝床で大きな声で歌を歌っていた。私は先日の調査の人に電話して来てもらった。そしたら調査の人はこれは、痴呆の専門病院があるので行かれたほうが良い、自宅ではどうにもなりませんと言われた。私は調査の人に医療機関を聞き二〜三の該当の病院をメモした。いちばん近い御所の秋津鴻池病院にコンタクトを取った。次に先日診断した整形の先生に連絡して紹介状をお願いした。その夜に千葉の兄(長男)に連絡したあと、大阪の兄(次男)には母のことを説明し病院へ一緒に行ってくれないかと頼んだ。しかし兄は行けないとの返事、私はそうかと言って電話を切った。母は相変わらず叫び続け、疲れては少し眠り起きては又叫びの繰り返しだった。おかげで私は一時間おきぐらいに母を見に行った夜中の二時ごろ母はようやく眠りについた。
 そして当日の朝いつものように母のパンツを交換して、母に病院で見てもらいに行こうねと言うと母は素直にウンとうなずいた。母に肌着や服を着せながら、最後にズボンを履かせている時に、母は又転んでタンスにおでこをコツンと打った。それから母を抱えながら車に乗せ病院へ向かった。途中で榛原の病院で紹介状を受け取り、御所の秋津鴻池病院へ向かった。母は道中ずっと眠り続けた。病院の待合室で待つ間、母は病院の外の庭を眺めていて猫がいると言った。そして今度は猫が水を飲んでいると言ってケラケラ笑った。庭には猫などおらず母にとっては幻覚の世界なのだ。しばらくして診察室に入った。その折にその事を医師に話した。結果は二ヶ月の入院だった。看護婦さんの詰め所で入院の手続きを終えて出て来ると、母は車椅子に乗って昼食を取っていた。病室に戻った母に帰るわと言うと母はウンとうなずいた。家に帰った私は誰もいない母の部屋を眺めながら寂しさと安らぎの入り交じった気持ちにため息をついた。翌日病院に行くと母はよく眠っていた。看護婦さんは昨夜だいぶ叫んでいましたよと言った。仕方なくパジャマなど細々したものを看護婦さんに渡して帰宅した。
 一日おいて次に日に病院へ行ったら、母はみんなと一緒に食事をしていた。病院に戻った母は私を見るなり、あんなに言っていたのにこんなところに連れてきてと小言を言った。そしてしばらくしては母は私にそんなに悪いのかと聞いた。今調べてもらっていると答えた。そのあと今度はお金は大丈夫かと聞いた。私はそんな事心配せんで良いと答えた。しばらくすると母はうとうとしだした。私は母に声をかけ帰宅した。帰りながら痴呆と幻覚と時たま訪れる正気の揺れ動く世界に生きながらも、母は我が子の事を思いやる気持ちにいとおしく思った。一日置いて病院に見舞いに行くと母は比較的元気にしていた。そして母に明日千葉の兄ちゃん(長男)が見舞いに来るよと告げた。和子さん(長男の嫁)もくるよと言ったら、母は和子さんて誰やと聞いた。もはや母の脳裏から消えているらしい。しばらくして私が持ってきた柿を食べるかと聞くと、ウンとうなずいた。母の口にむいた柿を一切れほり込んだ。母はにっこりして美味しいと言った。母は又うとうとしだした。翌日私は近鉄の飛鳥駅に兄夫婦を迎にいった。そして兄夫婦と一緒に病院に行くと丁度食事前だった。食事の後病室に戻った母は兄に向かって、あんなに言っていたのにこんな所に連れて来てとまた小言を言った。そうしてもうあかんわと一人言をいった。母は多分兄を私と勘違いしてしゃべっていたのかもしれない。
 それから明後日の午後三時三十分ごろ病院の主治医から電話が入った。母の容態が悪化したと、翌日母を見舞いに行くと、母は一般病棟から集中治療室に移されていた。私を見るなり靴下を脱がしてくれと言う。見ると母の両足には包帯がグルグル巻きにされていた。靴下なんか履いていないよと言うと、母はそうかと言った。母は包帯を靴下と思っているらしい。しばらくすると母はお茶がほしいと言ったので、看護婦さんに言ってお茶をもらい飲ませた。その日の母は元気そうだったので、私は母に声をかけて帰宅した。
 翌日病院の主治医を訪ねたら、母の容態について医師は、母の血液の酸素量が少なく、生きているのが不思議なくらいですと言った。出来るだけの事をしますが、その心積もりはして置いて下さいと言われた。私はお願いしますと言って母の病室に行った。母はよく眠っていた。しばらく居たが起きそうにないので私は病室を後にした。
 二日後の十一月五日母を見舞うと、母は今日は来るかと思って待っていたと言った。そして兄ちゃん(千葉の兄)は来たかと尋ねた。私は先週の火曜日に来たよと言ったら、母は右手の指二本立てて示した。(多分二回来たかという意味らしい)いいや一回やと答えると、母は首を傾けるようにしながらそうかとうなずいた。そして私が持ってきた柿を食べるかと聞くとウンとうなずいた。母の口にむいた柿を一切れ入れた。母は美味しいと言ってにっこり微笑んだ。しばらくして隣のベットを眺めていた母は、草餅を搗(つつ)いていると言って子供のような顔でケラケラ笑った。母との会話はこれが最後となった。
 翌日母の姪の緑さんと見舞ったときは母は昏々と眠っていた。その明後日の未明の午前三時二十分ごろ病院より母が危篤との連絡が入った。私は早々病院に駆けつけたが、母は息を引き取ったあとだった。満九十一歳半ばの大往生だった。


 あとがき

 三年近くの介護を通して、母は我が子に老いて逝く自然の流れの実践教育をしてくれたような気がする。三人兄弟の末っ子の私に母への親孝行(体験)を独り占めさせて頂く幸せに恵まれた。多分母は満足して旅立ったに違いない。ひよっとすると振り向きながら、「やっちゃん」と叫びながら逝ったかもしれない。長い間私を守ってくれた「おかあちゃん」ありがとう。
                                                                   合掌

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