サイド・デスクの中


スペイン・トレドで写す(平成8年3月)

宮井 卓


目 次

ビジネス・スーツに日々に
頼まれ仲人 先端技術とは何か
情報と問題意識とアイデア 二十五年目の上諏訪
静脈の工学 流さないで・・・・・・・・
先輩もしっかりしなくちゃ 端境期がやってきた
私の体験的人材育成論ー中小企業経営者的経験を ”なみだ””におい””わらい”ー友好訪中団報告
四つ葉のクローバの話 技術立社と営業(インタビュー)
技術育てる企業風土を 広告の多様化と差別化
ジェラシーの功罪 泉より行方を見る人
中国・南京・講義の旅

ロッキング・チェアの日々に
自己紹介 坂道のある風景 悪筆一家  技術革新に乾杯 ドイツ 我が青春の日々に
離別、ドアのうち、そと ニュージャージからの留学生 たかがゴルフ、さりながら
時は流れ、墓も移る 大事な話のさえない結末 夏越のはらいの日
国際経済戦争の影に 隠居の幻想即興曲 1973年秋 訪ソの旅
我が菜園記 カリブ海からのミステリアスな手紙 旅、人との出会い

ごあいさつ

 皆々様には、ご健勝にお過ごしのこととお慶び申し上げます。
 私の今日までの経過を、私なりに振り返ってみますと、好奇心を満たすには充分なほどの多面性があり、退屈しないほどの充分な変化があり、しかも、ありがたくも、適度な安定にも恵まれた年月を送ることができたと思います。
 これひとえに皆様方のご支援、ご好意の賜物と感謝いたしております。
 その間に感じたり、経験したりしたことなどから採り拾いました雑文集「サイド・デスクの中」をまとめましたので、これで日ごろのご無沙汰のおわびのご挨拶も兼ねることとして、贈らせていただきました。
 思い出の一コマとしてご一読を頂ければ、うれしく存じます。

宮井 卓

頼まれ仲人

 気だけは若いつもりでも、われわれ夫婦も気軽に頼める存在のくせに、しかもなんとか格好がつかんでもない年頃になって来たせいか、最近、結婚式場用仲人をたのまれることがわりとあるようになった。
 このいわば粉飾決算的頼まれ仲人も、やって見るとなかなかいいものだ。そもそも依頼者である若いカップルが親しくなりそめた経緯についてはいろいろある。同じ会社に勤めているうちに意気投合したというのはもちろん、その他列車の中で話のきっかけが出来たり、正月休みにスキーに行った先でお互いの火が燃え出したのやらである。
 しかし、私のところに話が持ち込まれるのは、ちゃんと両親の了承、その他諸手続きが終わってからであるから、従って「甘いも辛いも噛み分けた」粋な先輩として両親の間を往来したり、また写真やら釣書をも持って、時には「なこうど口」の一つもきいたりして、うろちょろする必要のないのは全く助かる。
 また結納を納める役目も、「本日はお日柄もよろしく」なんて、末広を置いて、しばるのは私のがらに合わないので、ご勘弁願うことにしている。
 それにしても、昔はわりとこんなことには勘がよくて、他人のロマンスにつぃては聞き逃しっこなかったのに、話がこれまで進んでいたとはつゆ知らず、またつゆ知らされず、ご本人から仲人を頼まれて初めて知り、後で他の若い連中に聞いてみると皆よく知っていて、「知らぬはおっさんばかりなり」ということに相成る始末。年経ぬものかなと慨嘆これ久しくしてみたり、私どもの結婚した時と違って、こんなのがあたりまえになってしまえば、周囲の者が事の成り行きをやさしく静かに見守っているものも、現在の若もい人々のエチケットなんだなーと感心してみたりしている次第だ。
 それにしても、ご本人たちが実にしっかり(また時にはちゃっかり?)していて、結婚式、新婚旅行の段取りはもちろん、新居から世帯道具まで二人で相談して準備し、中には親の援助の約束までとり付けているのには、これまた立派なものだと、自分たちの結婚当時に比べて感心している。
 さて、この頼まれた仲人にも楽しみはある。披露宴での仲人挨拶の参考と称して、この当人たちのそもそものロマンスのなりそめから現在に至るまでの一巻の物語を「それからどうなったの」などと合いの手を入れながら聞かせてもらえるのも特権の一つだ。また日曜日などに美しい婚約者を連れて来ると、女の子のいないわが家も華やいでくるし、彼女から「一日一日が充実して楽しいですわ」などと言われると、こちらまでくすぐったく楽しくなる。
 また一方、式の日が近づくといそいそと式服を出してみたり、髪のセットに行ったりするわが古女房殿をニヤニヤして見ているものも悪いものではない。式の当日、式の方は神主さんにおまかせするとして、披露宴になると、頼まれたからにはという生来のおせっかい性が出て来て、宴の気分を盛り上げるように予め司会者などとシナリオを考えておいて、適当に新郎新婦をほめたり、ひやかしながら演出していく楽しさも、頼まれ仲人の冥利だ。
 しかしこの華やいだ雰囲気の中で、しみじみした親子の情愛を見せられるのも、この時である。この中で特に私が心を打たれるのは、理性の上では巣立ち行く若い者たちの幸せを祝福しながら、なおかつ手中の珠のように慈しんで育ててきた可愛い娘をおくり出す新婦のご両親の切ない気持ち、ことに父親の気持ちが、同性である私の心にもジーンと伝わって来て、こちらも涙ぐんでしまうような心情や情景に出くわすことが多い。
 私は幸せがいっぱいの新郎新婦に、心からそのご両親に感謝をしてもらいたいといつも願っている。
 恋愛、結婚、親子の情愛など、人生の織りなす大切な一こま一こま、人間のなさけと不思議なえにしに、頼まれ仲人の私も深く心動かされるのである。
 暑かった夏も終わりに近くなって、やがて結婚式のシーズンがやって来ようとしている。
 もうそろそろ頼まれ仲人のご指名が舞い込んで来そうなものだと内心大いに期待している。

(「関経連」1966年9月号掲載)

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先端技術とは何か

 先端技術を国民的立場から育成しなければならないとは、よく言われていることである。しかし、せて先端技術というと、人びとは宇宙ロケットだの、原子力だのをすぐ思い浮かべる。それも確かに先端技術のひとつではあるだろう。しかし、それが、先端技術のすべてであろうか。先端技術ともっと多様なものではないか―というのが、われわれ、企業の第一線で技術開発をやっているものの考え方である。
 わたくしは、先端技術というものは、目標が明確であり、したがってその目標に対して、現在の諸条件、環境などの物差しがはっきりしていて、はじめてその技術が先端であるとか、おくれているとかいえるものだと考えてている。このような物差しがはっきりしていてこそ、エネルギーの集中ができるものだと解釈している。確かに米ソでは、月への宇宙競争は国民的関心の的となりうるであろう。また軍事技術の開発という点からも、エネルギーを集中することも許されるかも知れない。
 日本では戦前には富国強兵という国民的中心課題が一応あった(その是非には問題があったにせよ)。そしてこの国民的中心課題を実現してゆくために、紡績業などの軽工業を土台にしながら、造船産業などが日本の社会のテイクオフの技術となったものだ。大鑑巨砲主義から生まれてきた新技術もいくつかあった。戦後はどうか。敗戦によって一挙廃墟となった社会を復興するための合いことばは「輸出」であった。また貧しさから脱出せんとする国民のエネルギーは、付加価値の高いエレクトロニクス産業はじめ、多くの国際的産業を生み出した。
 それでは、これからの日本の社会はどうなのか。なにが国民的中心課題であろうか。何ならば多くの市民が納得してエネルギーを注ぎこめるであろうか。それはロケットであろうか。人工衛星であろうか。
 ここで一つ、われわれとして、注目せざるを得ないことがある。それは海外の産業界の、日本に対する見方である。すなわち、日本の国内市場というのは、相当に魅力的なものではないか、比較的短時日で欧米との格差を詰めてしまった日本の技術は相当なものではないか、という彼らの見解である。ハーマン・カーンの指摘をまつまでもなく、日本の社会は高密度社会である。新幹線の出現によって、東海道メガポリスは現実のものとなりつつある。面積あたりの工業生産を算出すれば、日本の水準は極めて高く、西独に次ぎ世界第二で、米国の四倍である。
 しかし高いだけに、現在いろいろな意味での不均衡が生まれ、そのアンバランスが公害となってでてきているわけである。このように都市化した、高密度化した、しかもアンバランスの大きい社会こそ、今後むしろ大きな発展と挑戦すべきフロンティアを秘めた社会といえるであろう。それだからこそ、海外資本は日本に目をつけているわけだし、西暦二000年初頭には、日本の社会が世界のトップにおどり出るであろうと予測しているわけだ。
 だとしたら、われわれ日本の技術者としては、日本国内に、日本の社会のなかに、技術開発の目はないかと目を向けるのも当然である。そしてその方が人工衛星だの、ロケットに目を向けるよりは、一般市民のエネルギーを集中しやすいように考えるのだ。
 それならば、日本の社会の何に芽を見つけるのか。きわめてドロくさい話になって恐縮だが、それは生活環境をよくする技術だ。川の水をきれいにする技術、こまない高速電車で郊外から都心に多くの人を運ぶ技術、都心近くに快適な高層住宅を安価に提供する技術―。そんなものは、すべてみななあると”先端技術科学者””先端技術者”はいうかもしれない。お説の通りである。しかしそれならば、なぜ、すべてある技術が社会のなかでは、具体的なものとして実現しないのか。人びとはそれを安直に政治の貧困の故にする。もちろんそれは抜きがたく大きな問題であろう。しかし、もし政治がわれわれに、その可能な条件をもたらしてくれたとしても、われわれ技術の側で、これに対応して活動するには、あまり不用意ではなかろうか。
 現在の科学者、技術者の多くは、いわゆる総合という仕事は不得手である。科学なり技術なりのそれぞれの専門分野を巧みに組合わせて、総合して、新しいものをつくりだすような訓練もされていなければ、そのための組織化もされていない。大気汚染の問題を一例としてみても、気象学者は気象の問題だけを、自動車のエンジンメーカーは、自動車のことだけしか考えていないからだ。
 二十世紀の技術は、すべて純粋科学が切り開いた成果だともいう。原子力物理の成果が原子力となったように。しかしながら、現在の純粋科学の先端は、実はかなり伸びなやんでいる。技術革新の停滞は、エレクトロニクスの分野でも、はっきり見られている。次の突破口が見つからないで壁の前に立ちはだかっている感が強い。だから、少なくても、ここ当分は既存の技術をうまくシステムとして組み合わすこと、つまりぎじゅつの技術の総合化が大きな課題なのである。しかも、学問自体の発展を歴史的にながめても、こまかく分化して、深く専門化する作業と、広く総合化する作業とが、うまく組み合わさって、初めて大きな発展を見せている。科学それ自体の飛躍のためにも、今は総合化が必要なのである。
 こうなると先端技術というのは、ロケットだの、原子炉だのというものに限らず、もっと多面的なものと考えねばなるまい。すでにある数多くの技術を、合理的に、目的にあったように、次から次へと組み合わせてゆくところに新しいものがつくり出されるのだ。このようなシステム開発はドロくさいものだろうか。アメリカがやるからだの、ドゴールがやったなどという、常に外国の、あるいは他人おけにによりかかろうとする姿勢よりは、現時点にあってはこの方がはるかに科学的なもののように思うのだが―――

「朝日新聞 文化欄」一九六八年七月十日

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情報と問題意識とアイデア

 私には元来、説教癖があるらしい。時々家人ににもそう言われるし、また自分でも確かにその傾向があると認めている。私は企画屋、開発屋という商売柄から、私の部のメンバーにもいつも得意の説教を聞かせる。企画をするには情報を集める、しかも質のいいのを採ってこい、そいつをいろいろ組合わせてアイデアをひねり出すんだ・・・・・・・と。
 さて、とは言うものの実際にはこの情報なるものが大変なのである。つまり現在は、反面では情報の大洪水に悩まされているのも事実である。うっかりしていると、われわれはその中に埋めつくされて溺れてしまいそうである。この中からいいのを採りだして、アイデアを組立てるのならいいが、ただ毎日多くの情報を送り迎えしているだけだったり、情報をため込みはするが単に物知りになるだけでなんのアクションもしなければ、落語の熊公、八公だけに尊敬されるにすぎない横町のご隠居みたいな存在になってしまう。
 また、最近のように多種多方面の知識、情報を総合しないと仕事にならない時代になると、ともすれば会議が多くなり、しかも単に情報の交換に飲み終わってしまって、さっぱり総合もできなければ、結論も出ないようなのがたまたまある。またこの上に、複写方法の発達などのために、毎々日を通すひまもないほど文章の情報が流れ込んできて、消化不良をおこしかねまじいのも、これまたともに、まことに困ったことである。
 これからは情報化時代であるといわれている。これに対してもどうやっていけばよいものか、勉強しなければならないと考えている。
 また、私は問題意識という点でも、例を引いてよく言う。・・・・・・「例えばだなあ、われわれが服を作ろうと思うと、通勤の途中でも、他人に面会してもどんな人にはどんな服がよく似合うか、流行の傾向はどうか、服飾のTPOはいかにあるべきかを考えるだろう。そして自分にはどんな服を選ぶべきかを、自分のスタイル、年格好などから考えるだろう。これが問題意識なんだ」。つまり、「われわれが新しい問題にチャレンジするにしても、新製品を開発するにも、これからくるべき時代の需要よ即や技術予測をし、またこれに対してのわれわれの持っている力を分析して、目標をさだめ、それにアプローチする方法を求めねばならない。そのためにも、これらについての問題意識を常に持っていなければならない」「そもそもアイデアとは問題意識を持った人の耳にのみ聞こえる運命の女神のささやきなんだ」・・・・と熱弁をふるって説教する。
 ところが、実際、私の風采ときたら一向パリッとしたものではない。いわんや、服飾のTPOなんて、ほど遠いもんだ。なるほど、服を作る前には他人の服も、デパートの服売場のマネキンにも、一応気をつけて見るには見るけれども、さて本番になって、洋服屋のフィッティングルームにはいって寸法を採られる段になると、ガマの油ノガマではないが、鏡のなかの己の姿の醜さ?に、ただただ恐縮してしまって一言もなく、服屋さんの言いなりになってしまうのが落ちである。
 従って、私の服装のパッとしないのは、もんだいいしきなどを超越した生来のスタイルの悪さに、造形美に対するセンスのなさ、さらにその上にサイフの軽さのせいであろう。

「関経連」一九六八年二月号

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二十五年目の上諏訪

 今年の六月末、結婚してから二十五周年の日を迎えた私ども夫婦は、一週間ほどの休暇を取って、北海道と信州の蓼科、諏訪あたりに行って来た。
 北海道は、前からの家内の希望にそったためであるが、特に私が諏訪地方を選んだのは、私どもの銀婚の日には、ぜひ家内とともに訪ねてみたい、と思いつづけてきたからである。
 新宿を出た列車が、八ケ岳の山すそを通り、長野県に入って行くにつれて、窓の外の目にうつる山々の緑と重なって、二十五年前の回想の一齣、一齣が、感慨とともに一種の軽い興奮を伴って、私の心の中に去来した。
 二十五年前、つまり昭和二十年春、技術中尉の私は、疎開さわぎで混乱している新宿から、この人同じく中央線に乗って上諏訪に赴任した。電波兵器(レーダー)の研究所の研究員として、上諏訪分室に新たに勤務することになったのである。
 当時、東京はもう連日のように、はげしい空襲を受けていたので、私どもの研究所も、いくつかの分室に分かれて方々に疎開することになり、私の勤務部署である真空管の研究室は、当時の諏訪中学(現清陵高校)にすでに移動を終わっていた。
 上諏訪での勤務は、わずか四ヶ月たらずで日本の敗戦とともに終わったのであるが、私にとって一生忘れられない町であり、期間となってしまった。
 東京からやってきた私にとっては、湖を抱き、山にかこまれた上諏訪は、静かな落ちついた温泉の町であった。独身者だったので、研究所の宿舎になっていた、かって天皇もお泊まりになったという「ぼたん屋」旅館にひと先ず落ち着いて、ここから諏訪中がの物理教室、化学教室、体育館等を改造した研究室に通った。諏訪中学は町はずれの小高いところにあって、すぐ裏が山になって、ここから諏訪の町、湖、その向こうのアルプスの山なみを見渡すことができた。また、ここは多くの学者や文化人を先輩に持ち、学問を尊ぶ校風があった。
 関西の都会に育った私には、さわやかな空気の、白樺にかこまれ、裏山で小鳥の声のきこえるこの信州の高知の学園は、その雰囲気だけで強い印象を与えられた。
 一方、戦争はすでに末期に近づき、日本の敗色は日ましに濃くなりつつあった。沖縄は落ち、各都市は焼きつくされつつあった。元来、静かで平和であるべきこの町も、空襲こそなかったが、ときたま日本海に機雷を投下に行く米機のために警報が発せられ、中学校では工場に勤労奉仕に行き、三年生がわれわれの研究室の実験の手伝いをしていた。
 私の研究テーマは真空管の金属材料のガスの除去であったので、毎日真空ポンプを動かして実験をつづけたが、設備や部品の不足でいろいろの困難があり、時には実験が手持ちになり、その間には実験を手伝っている中学生に数学や物理を教えて授業の不足を補ってやった。その中の一人で級長をしていたU少年の一家は、親切にも私に下宿としてその離れの部屋を提供してくれた。そこは上諏訪より東に二駅目の青柳駅の近くで、山あいのほんとうに静かな村であった。
 そのうちに、六月三十日、私どもは結婚した。その前年、卒業するとすぐの予定が、勤務の都合などでのびのびになっていあたのである。この日、少しの休暇がとれたので、夜行で急いで京都の実家に向かった。翌日の朝、実家に着いたとき、花嫁になるべき家内は廊下で雑巾がけをしていたことを覚えている。その当時、私の両親は四国の田舎に疎開していて、出てこれる状態でもなく、とにかく結婚記念写真を送ることにしていたので、結婚式といっても花嫁姿の家内と写真を撮るだけであった。その日の午後、二人で奈良に行ったが、そのときの軍服姿の私と、モンペをはいた家内の写真が残っている。幸いにもその日は空襲はなかった。奈良から帰ると、妻には、近いうちに家を見つけるからと言って、一人であわただしく信州に帰っていった。
 それから間もなく敗戦の日が来た。
 今年の六月三十日、蓼科から茅野に出た私どもは、タクシーですぐ上諏訪の清陵高校(元諏訪中学)に向かった。そこには二十五年前と同じような静かさがあった。私のかっての研究室であった物理教室では、若い先生が講義しているのが窓から見えた。
 白樺の枝の下から見る湖や町は、折悪く降り出した小雨のために、この対岸も、アルプスも見えなかったが、私には二十五年前の記憶があざやかによみがえってきた。あのときに実験を手伝ってくれた丸坊頭のあの少年たちは今どこで、どうしているのだろう。私がかれらの学生服のイメージを追憶しているとき、一人の髪を長くのばした高校生がサンダルばきで私たちの横をかけ抜けていった。
 近頃の華やかな結婚披露に招かれる旅に思いだしていた私どもの結婚生活のスタートも、今では戦後の混乱期に生まれた長男は大学を出てすでに就職し、ベビーブームの最中に生まれた次男も大学生となってしまった。
 二十五年前、開放した研究室を後に、ここの坂道を下りながら、深い敗戦の屈辱感のなかで、そのくらい将来を思った日本も、今では世界の大国の一つになっている。
 新婚の住まいをこの町に持つべきはずであった私ども二人は、この日、銀婚の日に、小雨にけむる諏訪の町をじっと眺めて立っていた。
 そして私は、私どもの敗戦もここでほんとうに終わったんだ、と心から思った。

「関経連」一九七0年八月号



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静脈の工学

 ある大学の先生と話をしているとき、動脈の工学と静脈の工学という話が出た。つまり社会を人体にたとえて、産業社会の活動のうち、今までのように生産量増大、新製品開発のための工学が動脈の工学であるとするならば、公害防止、環境保全のための工学が静脈の工学だというのである。
 しかし、日本では特に現在に至るまで動脈系の活動のみがおう盛で、したがって技術者はほとんどこの方面に動員させられてきた。かくして日本もある意味では肥大国となったが、半面、動脈と静脈のバランスが壊れてしまった。
 環境保全とか交通問題が大問題となって、テクノロジー・アセスメントというこの大切さが論じられるようになっている。だが一方では、いくつかの業界では巨大な経費を艶して建設した設備が操業を短縮したり、せっかく育ててきた技術もその力を発揮する場がなくて、技術者がやるせない思いをしているとのことである。
 環境事業にたずさわっているわれわれの立場から見ると、動脈側の技術は大いに活用したいし、またしなければならないものである。たとえば下水の汚泥処理には、私が三十年も前に学んだ鉱石の選鉱や金属の予備精錬の技術が新しく採用されている。その他、分離、濃縮、乾燥、燃焼など多くの科学工学の基本的な技術そのものが用いられている。
 それだけではない。熱機関に用いられていた技術や物理化学的な処理法など今まで動脈側では新しいとはいえない技術や科学が、この静脈側に新しい応用される場を見出しているのである。
 一方、動脈側では優れた技術者の不足に悩んでいる。そこで動脈側を代弁して、私は動脈側の技術者諸氏に「こちらに大活躍の場あり、来たり投ぜよ」とおすすめしたいのであるが・・・・・・・・。いかがなものでしょうか。

「日刊工業新聞  コラム  技術の焦点」一九七二年二月

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流さないで・・・・・・・・・

「流されないで」――最近の芥川賞受賞の李恢成氏の作品は、祖国を失った母が、流亡の末、そんな志をもって父を励ましながら死んでいったと感動的に結ばれている。
 さて、つい最近まで、技術者は世の中に出た時に心を決めた専門、または企業の中で与えられた専門技術とその応用市場についての知識、経験、技術を深く深くきわめていくことを求められ、惑うことなく、そのことに生きがいを持つことが当然とされていた。
 そのうえ、日本の社会体質はタテ社会といわれるごとく、ヨコへの流動が少ない。そのため企業面はもちろんこと、一企業間の中にあってすら人材の流動化はそう簡単にいかない事情にあった。
 しかし、半面、近年の社会の変化と科学技術の革新の激しさはこの事情を大きく変えてきた。とくに産業界にあっては技術の変動、市場の変転は目まぐるしく、従って企業はこれに応じて、技術者の流動化を活発に行わねばならない」事情を追られてきた。また技術者のある者は、むしろ積極的にフロンティアを求め、新しい分野に移っていくことも多くなってきた。また長い間一途に打ち込んできた技術が、そのライフ・サイクルの終わりに近づくにつれ、活用の場を失い、あと始末にしか過ぎないことに時間を過ごす技術者も出てきている。
 技術開発のライフ・サイクルは製品や市場のライフ・サイクルよりかなり先んじて、くるべき事態に企業も、また技術者も備えねばならないのである。このためには需要予測や技術予測が重要であり、また一方、新しい事態に対応する技術能力の獲得のための流動化が要求される。一つの専門技術に深く入っていくことが尊重されねばならないのはもち論であるが、それにもまして、企業も技術者も自己の意志において流動化することが大いに要望せられている。
 つまり、志においては「流されないで」、しかも予測する知恵と、それによって定めた方向に流されていく勇気と努力が必要であること、互いにわれわれは励まし合わねばならないと思う。

「日刊工業新聞  コラム  技術の焦点」一九七二年三月


先輩もしっかりしなくちゃ

 入社式の写真や各社社長の訓話が新聞に載って、また新入社員が入社してくる季節がやってきた。われわれとしても、これらのフレッシュな若人が、すくすくのびていってくれることを願わずにおれない。
 そこで最近、技術者の仲間たちが次のようなことを話題にした。それは新入社員たちも何年か経ってみると、各人の状況はその才能によるのみならず、環境や運によって大いに左右されて、だいぶ異なっているだろう。また環境や運といっても、とくに所属先の上司、先輩の人格や指導能力が最も大きく影響するだろうといったことを、いくつか例にあげてみたことだった。
 そういえば、いままでも優れた技術者が続々育つところを、そうでないところを比べてみると、指導の立場にある人が、同じように個人的にはいい人であったり、優れた技術者であっても、その指導法によって後輩の力に大いに差がつくことを私たちはしばしば見てきている。
 その指導の仕方でも、私たちの経験で、後輩の育成に大いに役立ったと思われるものの一つは技術問題で、いろいろと発生する諸現象を物理とか化学とかの原理的なものにもとづいて解明して、基本的に指導すると、これは非常に応用がきいて、よい技術者が育つということである。
 もう一つは技術と需要などの関係を結びつけて、歴史的にその発展、変遷の因果関係を解明して、社会の文明、経済などのバックグランドを理解させながら、その技術の成立とその「場」をよくわからせるように指導すると、視野の広い、システム思考のできる後輩が育つと言うことを実際に見てきている。
 いずれにせよ、新入社員はおおいにがん張るように励まされるが、その育成ぶりで、先輩もまたきびしい評価を受けねばならないのである。従って、これまたしっかりしなくちゃ、ならないのである。

「日刊工業新聞  コラム  技術の焦点」一九七二年四月

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端境期がやってきた

 来年、大学の理工学系の入試を受験する息子を持つ親たちから、どんな学科を選ばせたらよいだろうか、技術系の学科を卒業する予定の学生から、どんな会社を志望したらいいだろうか、と相談されることがよくある。相談する方もどうしたものかと思い悩むのであろうが、実際、現在はだれにとっても選択のむずかしい、なかなか決めかねる時代になってきていると思う。
 数年前までは高度成長が予測される産業、大いに展開するであろう工学研究の分野も比較的簡単に見分けがついたけれども、こんごは成長が急速に鈍化したり、また国際問題や公害問題など、問題含みの業界があり、工学の立場からもかなり研究しつくされて、近い将来、新たな展開が予見されない分野のものも相当あって、今までの延長からはそう簡単に判断できないようになっている。
 そこで、「高度成長から減速経済の時代に」とか、「技術革新のひと休み時代」とか、果たして「価値観の多様化」などいろいろ表現はされているけれども、いずれにしてもポストインダストリアル時代へと大きな転換期にさしかかって来ているのは間違いない。
 またこの時期の製品開発には、科学技術のシーズを捜すより社会のニーズに応ぜよといわれて、現在不足している社会資本の充足などに技術の活用が求められている。しかし、とにかく現在は技術開発にとっても大きな端境期にあると考えられる。ここで工業技術にたずさわる者も、工学研究に従事している者も、このことは十分認識して対処せねばなるまい。
 まず必要なことは、いままでの技術の見直しを十分やって、次の科学技術の展開への準備を進めることであろう。
 どちらかといえば恵まれて来た高度成長時代に比較して、技術者にはきびしい試練の端境期がやって来ている。これを乗り越えるために、各々が将来を予測して、また現状を見きわめて柔軟な態度で進路を決めることも必要である。
 国としてもこの時期の乗り切り方は、ただ過ごせばよいというのではない。大きく国の運命にかかわるもので政治、経済、文教などの問題として総合的に対処されるべきものであろう。

             「日刊工業新聞 コラム 技術の焦点」1972年5月


私の体験的人材育成論ー中小企業経営者的経験をー
先輩に学ぶ

 私は正に体験的にという言葉そのものに、私が歩んできた道をお話しようと思います。私が今の会社に入社したのは戦後まもなくのことで、中途採用でした。しばらく研究者としてやってきまして、現在は経営戦略スタッフの一員というわけですから、なぜこうなったかをお話しすれば、それが私の体験的人材育成ということになります。ですから人材育成論といっても、おもに人材育成をされた方の論であります。
 私の会社は現在では大企業になっておりますが大阪の中小企業から出発した会社です。はじめは鋳物屋だったのが、段々と大きくなり、住宅産業、環境装置、エレクトロニス関係の機器、さらに系列会社には建設会社を持つまでに多角化したのは、やはり研究開発、徳に開発の方に熱心であったからと思います。ソニーにしても、松下にしても、中小企業から次第に大きくなったのですが、私は我が社が中小企業からの成り上がりの会社であるということを誇りに思っております。
 私が入社したころは、我が社はもうすでにかなり大きくなっていましたが、中小企業時代に創立者と一緒に働いていた人達がまだ残っていて、その人たちが我々を指導してくれました。考えてみれば、それが私にとって、非常に恵まれていたというこということがいえます。
その中にはドクターを持っている先輩もおりましたが、彼等は皆、経営射的、木型を注文し、写真屋を呼んで写真を撮らせ、広告文を書いて、売って歩いた。何から何まで自分でしたというのです。しかもそれが売れるか売れないかは、すぐ自分自身にはね返ってきます。中小企業ですから、三十代そこそこで、すでに経営者の仕事をしていたわけです。
 当時は、このオヤジさん、イヤだなと思っていたんですが、今思うと確かにいいお師匠だったという先輩が何人かいます。その中の一人に、研究しているものがその製品が使われている現場を知らなくてはといわれ、私は納入先の現場へ行きました。
そこで私は二つのことを学びました。一つは製品がどのように使われているかということです。これは勿論大事なことですが、もう一つ、もっと重要だったのは、その製品が使われるバックグラウンドにまで目を向ける必要があることを、教えられたことです。私の霊では、我が社では製鉄会社に鋼塊鋳型やロールなどを納めているので、日本の製鉄業界が世界的にどういう立場にあるか、今後の見通しはどうなのか、経済的な側面からもよく理解しておけというのです。その先輩は自分の手でものを作り、自分の足で売ってきたわけですから、お客さんの将来性について、ある程度見通しを立てておく必要があるということを経験的に知っていたのですね。
 それから、またある先輩からは、研究者の研究に対する態度というようなものを学びました。例えばある機械のアームが折れたとします。例えばそれについての報告は、ただどこそこのアームが折れましたというのでは受け付けてくれません。折れた部分にどのくらいの応力がっかったか、その時の外的、物理的条件は何か ,或いは材質がどうあったかと、理論的根拠を示し、データを付けて持っていかなければなりません。全て物理的、科学的現象として報告を出さなければなりませんでした。けれどもこうしておくと、次に同じ様な問題が起こったときに、すでに応用がきくことがわかりました。
 また、計算尺をいつも上着のポケットにに入れておかないとしかられました。すぐ目の前で数字に直せというわけです。そして上司のところにはたいてい、昔のチンチン、ガラガラという計算機がおいてありました。お前は数字で出さないからだめだ、ここに計算機があるから徹夜してでも数字で出して見ろといわれ、徹夜でチンチン、ガラガラとやった記憶があります。そういうことが私にとっては、非常に役立っています。

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マーケティングを学ぶ

 次に私が研究者から戦略スタッフに至った道筋をお話いしょうと思います。研究者から戦略スタッフになるということは、私自身としてはある意味では成り下がったと思っているわけです。研究をやっていた諸先輩、或いは現在たずさわっている方には非常にお気にさわるかもしれませんが、私は研究者にはライフ・サイクルがあるという考え方をしています。私の場合ですと、鋳鉄の組織についての研究をしていたのですが、ダクタイル鋳鉄でもうこれ以上変えようがないところまできてしまったので、そのときに研究者としてはもう終わったなと感じたわけです。
 IEを選んだわけです。そしてIE視察団の一員として、昭和三十五年の春にアメリカへ行きました。当時日本はまだ作れば売れるという時代でしたが、アメリカではもう一歩進んだマーケティング時代に入っていました。売れるものをどう作るかということでして、研究所もマーケティングの一環として存在していました。
日本では企業内の研究者でも、そのころはまだアカデミック・マインドでありました。研究者もマーケティング・オリエンティッドであるべきだといわれはじめたのは、もう少し後になったからです。
 アメリカの研究者は当時すでにマーケティング・オリエンティッドであったのですが、もう一つ私が注目したのは、販売部門にかなりの研究或いは開発出身者が投入されていたことです。それをみて私は、日本に帰って、マーケティングについて取り組むことにしました。マーケティングをやろうと思ったもう一つの理由は、後輩の研究には十分働いてもらうには、マーケティングが必要だったと考えたからです。研究者にテーマを与えるためにはもちろんですが、自分が研究開発したものがよく売れるとなれば、企業の利益に参画しているという感じが強くなり、研究者の意気もあがるというものです。
 こうして私は研究者から、マーケティングを含めた経営計画家としてのだ一歩を踏みだすことになったのですが、マーケティングのうち重要なのはプロダクト・プランニングですから、当然のことながら予測という問題にかかわることになります。予測というのは需要予測、環境予測ないしは社会環境予測及び技術予測などですが、予測してみて、自分の会社に経営資源としての人材というか、将来役に立ちそうな分野の研究者、技術者がいないことに気付いたわけです。そういう人材を確保しなければならないと痛感したのです。ちょうどそのころ、昭和三十四年〜三十五年ぐらいになると、中小企業時代からの先輩がそろそろ第一線から退かれました。次の時代が、私のすぐ上の先輩たちの代わりなのですが、その人たちが中堅のころは戦時中で、軍の命令通り物を付くっていればこと足りたという。いわばなにを作るかを考える経験のない層でありました。彼らの次がわれわれの代です。私たちは考えなければならないそうとしては、すでに一番上にいたのです。これも私に恵まれていたと思われることの一つです。

中央研究所設立

 そこで私は会社に中央研究所というものを設ける計画をしました。昭和三十五年は。ご承知かと思いますが、日本の中央研究所ブームの年です。今は中央研究所批判ブームですが、当時は日本経済が急カーブで上昇をはじめ、アメリカのまねだけではダメ、資金もできたから研究所をつくろうという時代でした。中央研究所を作るに当たっては、予測に基づいて、完全に戦略的なものにしました。研究所、とくに中央研究所というのは、現在の仕事をするところではなく、将来の仕事をするところであると考えていますから、戦略的な人材を集める手段に使えると思います。
 私のところは、材料屋と機械屋が非常に多い会社です。材料といっても金属ですから冶金屋ですが、当時は鋳物技術者と機械屋で成り立っているといってもいいほどでした。ですから、化学系、電気系の技術者、研究者が来にくいんですね。ところが予測すると、これからのメカは必ずエレクトロニクスを必要とする、あるいはプラスティック・エージが到来することがわかりました。そのときになってあわてないためには、今から人材の養成にかからねばならない、こう思ったわけです。
 そこで中央研究所に計装研究部をつくり、電気屋や物理屋を入れました。その二年ほど前から、そういう部をつくるからということで、大学の先生を説いてまわりました。お前のところに電気の学生を就職させてもダメだろうといわれましたが、いえ、研究部門ですから自由にやってもらいますと、とにかく何人か入社してもらったのです。それが発展して、現在では自動機事業部という、月商八億円ぐらいの事業部の技術的な中心になっています。在庫管理機、自動販売機などメカと電気がくっついたものを扱っています。
また化学系、特に合成樹脂、高分子化学がわかる人たちは、パイプの研究部門に入っておりましたが、今述べたように、プラスチック・エージが到来してそれが現在の住宅関係、ビニールパイプ関係の技術の中軸をなしています。また、我が社では、当時、農業機械部門を中心とする機械部門には、金属材料のよくわかる者があまりおりませんでしたので、金属材料研究部をつくって、熱処理とか、金属加工法、また特殊金属などの研究をする者を育てることにしました。ここから育った人々は、あとで機械部門や鋳鉄部門で大活躍をしました。
 さらに昭和三十五年には水道研究所も設置しました。これも二年がかりで準備を進めたものです。水が汚れ、空気が汚れてくるのをみて、環境問題が今後の日本を大きく揺さぶるのではないかと考えたわけです。私どもは水道パイプもつくっていますから、水の汚れが非常に気になります。そこで生物学をやった人と、土木の人、そしてそのころ(北大と京大に衛生工学ができたころでですが)その卒業生などを入れて、研究所で養成しました。これが発展して環境装置事業本部に成長しました。
 そうやって人を集めても、さて指導する人がおりません。こちらの方も大学の先生などの経歴のある方に指導にあってもらいましたが、おもに自分達で商品計画をするように仕向ました。
 こうして設立、運営してきた中央研究所も、二、三年前に廃止いたしました。廃止した理由はそれぞれ事業部門に成長したりして、歴史的使命が終わったと考えたからです。今は資源再利用のための研究部門とか、システムを研究する部門などをつくってみようかなと考えているところです。私はこの中央研究所の経緯を通じて、十年ぐらい先を読んで早めに手を打ったこと、また研究所の技術者、研究者が十分応えてくれたことを、非常に誇りに思っております。

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戦略スタッフの素質

    次に研究者が戦略スタッフになりうるかという点についてお話ししたいと思います。だいたい研究畑の人は経営向きでないという迷信が企業にあります。そして研究者自身もそう思いこんでしまう節があります。これが非常にマイナスに作用しますしね。それから、このことも関係するのですが、研究者が自分自身専門家というカラに閉じこもってしまうのも、戦略スタッフとしては不向きです。研究者が自分自身専門家であることを誇るのは当然ですし、専門家として強くなるのは素晴らしいことではあります。けれどもそのことにこだわりすぎると、これはやはりマイナスです。
 先ほど昭和三十五年は研究所ブームだと申し上げたのですが、現在は正直いって研究ブームは去ったと思います。三菱総研の牧野昇さんがよくおっしゃるように、いまやまさに技術革新の停滞期であるというのが実感ですね。ここしばらくの間は、従来の研究者タイプの人がコツコツ研究しても、いい成果が出てくる可能性は、きわめて少ないと残念ながら思います。こういう状況を反映して、企業における研究者の発言力が徐々に下がってくるムードがあります。
 それでは現在では研究者は全く戦略スタッフとして不向きかというと、決してそうではありませんで、研究のリーダー、ないしは研究テーマをつかむのがうまい人こそ、最も戦略スタッフに向いているし、それが将来最も有望な経営者像であると思うわけです。これまた、後に続く研究者に戦略スタッフの仲間入りをしてほしいと願う、わたしの研究者に対する期待でもあります。
 研究リーダーが戦略スタッフに向くという理由ですが、まず研究開発に携わってきた人は、現状を分析する訓練ができています。分析して仮説を立て、それを検証していく訓練は、他の部門の人より鍛えられているし、その素質を持っているはずです。それを企業の予測、環境の予測に応用すればよいわけです。しかもそのマネジメント、つまりリーダーシップですが、これも研究のリーダーシップそのものが、経営のリーダーシップとそう変わりません。というのは、最も難しいという研究者を使うこと自体が、企業全体の労働管理と根本的にまったく変わらないからです

企業内ベンチャー・ビジネス

  それでは最後に、研究者を戦略スタッフに育てるにはどういうやり方がいいのか、この点について述べてみたいと思います。まずシステム思考を身につけさせます。つまり、すべてのことにオールタナティブという考え方ができるようにします。数あるやり方の中から選択する能力を養うことです。私は若い人から書類を提出されても、たった一つの案しか書いていない場合は、突き返します。こういうことになりました、こういうことをしたいと思いますだけではだめなのです。この条件ではこれがいいと思いますが、ここを変えればこちらの方がいいと思います、こういう考え方ができるような訓練がまず必要であります。
 それは、若いときにやっておくべきです。といいますのは、これも私の経験ですが、若い時の方がしかられてもこたえないのですね。私はしかられる側から、今はもうしかる側へ移ったのですが、しかられる側としては三十代が限界だと思います。四十代になったらもうしかってもだめですね。それに四十代の人に向かってしかること自体、具合が悪いですから。ですから若いうちに鍛える、これが大切です。
 さて冒頭、私が入社したころ、わが社が中小企業時代に創立者とともに苦労してきた先輩に鍛えられたと申し上げましたが、その人たちは三十代ぐらいのとき、中小企業のオヤジさんのような経験を経てきています。この経験が貴重だと思うのですね。なかなかそういう経験をすることはむずかしいのです。人材育成にはもちろんその人の素質をみきわめなければなりませんが、素質があるとなったら三十代の、しかも前半に、中小企業のオヤジみたいなことをやらせよということです。
 それは今の言葉でいえば、企業内ベンチャー・ビジネスですね。ベンチャー・ビジネスをやらせろということです。現在私のところでもいくつかの企業内ベンチャー・ビジネスをつくり、それを三十代前半の男にやらせています。私は一種の開発銀行の総裁でして、経営目論見書をみて、いいと思うのには金を出します。OKとなれば、経営計画、マーケティング、宣伝、さらに労務管理まで全部、企業内ベンチャー・ビジネスのリーダー、つまり社長ですね、にやらせます。
 組織ががっちりかたまっている企業では、こういうメカニズムが人材育成には不可欠ではないかという気がします。今日までの日本の経済界のリードしてきた有能な経営者は、皆、中小企業のオヤジの経験を経てきています。ソニーの井深さん、盛田さん、ナショナルの松下さんなどまさにそのものだと思います。けれでも現在の人たちは、もうそういう機会が非常に少ないですね。
 また、そういう先輩たちは、激動の時代を乗り切ってきました。自分の肌に感じるような社会機構の変転を経験しています。身一つで次々と持ちこまれる問題には対処していかなければなりませんでした。しかし今、高度成長した企業に新入社員として入社してきた人々は、黙っていても毎年給料が上がっていき、あまり考える機会がない。考えなくてもすむんですね。これからは、減速時代とか省資源時代とかでまた少し変わってくるかもしれませんが、今いる人たちにあえてその機会をつくってやらなければいかんのではないかと思います。現在のしっかり組織化された企業内でも、自分がやらなくては誰も手をのべてはくれないのだ、という立場をつくってやることこそ、人材育成法であると私は考えています。
 

質疑応答

 企業内ベンチャー・ビジネスについて三点ほど伺いたいのです。まず第一は素質ということですが、そしつがあるのかをどこでみわけていらっしゃるかということと、第二点は、ベンチャー・ビジネスの小社長が宮井さんの傘下にいて、つまり宮井さんの庇護の下にビジネスをすすめているのか、それとも他のライン部門と折衝などにいたるまで、その小社長が直接自分でやっているのか、第三点は、ベンチャー・ビジネスを任せているのは三十代前半の若い人だということですが、その役目が終わったとき、彼らをどう扱い育てていかれるか、そのへんのところをお聞かせいただきたいと思います。

 宮井  第一点につてですが、一口に素質といいましても、この場合は研究者としての素質ということではなしに、戦略スタッフとしての素質ということでお話しします。つまり経営者的感覚を持っているか否かということです。まず、自分の意見を持っていること、そしてそれを人に伝えるのが上手なことです。入社試験の面接で、なで技術屋を選んだかを聞くと、口下手であるからという人がいますが、こういう人は少なくとも戦略スタッフに向いていないと思います。
それから、社内でみていてわかりますが、よく相談をもちかけられている人がいますね。相談されるというのは、リーダーシップがあるとか知恵が出せるとか、それだけ資質をもっているというのは、専門的に強いというのは常識です。
 次に二番目のご質問に対するお答えですが、どちらでもないとお答えするよりないと思います。私は自分をジュース・ディスペンサーだと思っています。オレンジかグレープとか書いてあって、そこを押すとそのジュースそのジュースが出てくれるあれです。ですから小社長はここを押せばこれが出てくるということを知っていなければならない。また彼らは押し方がうまいのです。その意味においては、彼らは私をかなり利用しているというのは事実です。けれども、いまわが社でやっているベンチャー・ビジネスは、今までのあまり扱ったことがないというものですから、それについて私自身もオーソリティーを持っていないのです。つまりあまり口の入れようもないというわけです。
 さて最後のご質問ですが、まず私が三十代前半といったのは、別に理論的な根拠があるわけでありません。ただ経験上、しかられてもそれほどこたえない、また非常にフレキシブルな考え方ができる年代であると思っています。それでは一度、小社長の経験をさせた後、彼らをどうするかといいますと、私は次にはまた専門の研究にもどってもいいと考えています。小社長というようなキャリアを持たせること自体にも二つの意味があります。それによって自分自身の力がつく。ですからその後専門職にもどっても、ベンチャー・ビジネスの経験が無駄であったとは、彼自身もそしてわれわれにしても、決していえません。

 現在なさっているベンチャー・ビジネスがうまくいけば、その小社長にずっとそれを続けさせるわけですか。

 宮井 そうなります。

 成功の可能性はどのくらいに考えておられますか。

 宮井 可能性はかなりあると思っています。それは第一にできそうなひとにやらせているということ、第二にうまくいくようにかなり応援しているからです。

 ジョブ・ローテーションについてはどうお考えですか。

 宮井 わが社は非常に多角的企業でありますので、スペシャリストの全社的ジョブ・ローテーションがしにくいということがまずあります。ですからジョブ・ローテーションということだけとれば、わが社はうまくいっていないといえます。これは会社の性格上からくることだろうと思います。
 それでは、そのための弊害が今まであまり出ていないのではなぜかと申しますと、それは多角的化するスピードが非常にはやっかったからだろうと思います。新しい部門へ次々と人を送らなくてはならないので、あえてローテーションをしなくても、リフレッシュメントが自然にできてきたというわけです。
 けれども今後はわが社においてもジョブ・ローテーションが必要であると思います。その場合、どこへどういう人たちを送るべきかを考える前に、まず全社的に、技術群についていえば、わが社で使われている、あるいは今後必要となるであろう全技術を、基本的に持っていなければならない技術、戦略的に保持あるいは育成しなければならない技術、さらに流動化している技術に分類する作業をやりたいわけです。他の企業でもそうでしょうが、わが社でも将来の戦略上、これはどうしてもやらなければならないと思っています。

科学技術と経済の会「技術と経済」一九七四年五月号

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”なみだ””におい””わらい”−友好訪中団報告−


”なみだ”について

 上海近郊の唐湾人民公社に行ったとき、幼稚園を訪ねる機会があった。そこでわれわれは頬を赤くした元気な子供たちの、せい一杯の歓迎を受けた。オルガンに合わせてのお遊戯をみせてもらいながら、私は目にあふれ出る涙で壁に掛けてあった周恩来首相の刺しゆうの像がぼんやりとして来た。幼いものたちのあどけなさと、その懸命な姿は、これまで乗り越えて来た中国の苦難の歴史の回想と重なって、私の心を強く打ったのである。ふと見ると、若い団員の一人が、その遊戯に合わせて腕を上下に振っていた。この戦争を知らない彼も目に涙をにじませながら、私はこの中国の子供たちも、私の孫たちも、そしてこの若い団員の子供たちも、お互いに永遠に平和な隣国にあって元気に育っていってくれることを祈りつつ、かん高い歌声の続く教室を後にした。
 青島に着いた朝、私たちは有名な青島海岸へ散歩に出て、そこの公園で、いすれも五十歳を過ぎた男性女性を交えた日本人の一団に出会った。聞けば青島の日本人小学校の同窓を募って来たそうで、いわば里帰りの興奮が彼らの声にあふれていた。東京から来た女性が「ここから見る風景は私が少女時代に住んでいた時のままです。何もかも懐かしくて、なつかしくて」と声をはずませて話しかけてきた。三十数年振りで、昔のままの青島駅に着いたときには、あふれ出る涙にむせびつつ女の人は手を取り合って泣いていたという。ここを去る時にはもう再び来ることはあるまいと、女学校時代に青島を離れてから再びここに温かく迎えられた彼らの姿に、私は激しく哀しい動乱の世代を通り抜けていった日本人と中国人の深い係わり合いを思わざるをえなかった。

”におい”について

 中国でなつかしい”におい”を嗅いだ。その一つは石灰が燃えたときに出すにおいである。山東省の泰案に着いた時、少年時代の小学校のスーブを思い出させた石炭のにおいがただよっていた。列車はSLで引かれていたし、駅には石炭やコークスを満載した貨車がとまっていた。宿に着くとスチーム暖房は石炭を燃やしていた。済南のトラクター工場でも、加熱炉に石炭やコークスを使っていて、そのにおいが私の若い時の工場の思い出をさそい出した。日本で燃料が石油に変わってしまったのは何時のことであったか、とにかくなつかしい”におい”に中国で再会した。
 また煙突からもくもく出る黒い煙もなつかしかった。日本なら早速、文句をつけられるのだが。帰国してからのことであるが、イランの政変以来、わが国では石油危機が再び重大問題となり、石炭を再びエネルギー源にしなければならない事情になってきて、山東省の炭鉱を日中両国で共同開発する計画が進んでいるという報道を見た。やがて日本でも山東省の石炭の”におい”を嗅ぐ日がやって来るかもしれない。ちなみに中国は、米、ソについで世界第三石炭産出国である。
 もう一つなつかしい”におい”はDDTのにおいである。青島で地下道を見学した。この大きい地下道を二キロメートルも歩いたのであるが、そこに地下病院まであって、青島駅やデパートともつながっていて、非常の場合に市民を安全な場所に避難させるので、岩を切り拓き、大規模なものであった。そこに入った時、ある種の”におい”がした。そしてそれがDDTのにおいであることに気付いた。「DDTのにおいですね」と言うと、案内の人がそうだと答えた。われわれ団員の中には戦後、米軍の指令によるDDTの散布を経験した者もいただろうし、その後殺虫剤として非常に広く使われてきたが、日本では十年以上も前に人体に害があるという理由でDDTは使用禁止になっている。とりあえず、通訳を通じて、日本ではしよう禁止になっていると伝えて老いた。帰国後、有吉佐和子さんの「中国リポート」によると、中国でも農村でDDTやBHCを使っているところと、もう止めているところがあることが分かった。いずれにせよ、ここで国防と人民の避難に大いに心をくばっていると云うことを示す大地下道に、なつかしいDDTの”におい”という組み合わせも今の中国の姿の一つであろう。

”わらい”について

 言葉の上での傷害というものは人々の本当の気持ちに入り込めないし、またユーモアとかジョークについてはこちらの理解も至らないので、今回の中国旅行でも、”わらい”についてあまり書くことがないのは極めて残念なことである。
青島では講談や漫才やミュージカルを見せてくれる劇場へ行った。漫才のたぐいは日本の漫才と同じような運びであることが、通訳を通して理解できた。その中で四人組が耳朶のことを皮肉った、女性の労働の尊さとか、産児制限おすすめのような、ある意味で教育的な内容を織り込んではいたが、周りの人々が文字通り腹をかかえて笑っていたので、こちらもわからぬままに、つられて笑ってしまった。
 また済南市の実験中学(エリート教育の模範中学)を見学した時に、そこの生徒の課外活動としての音楽とか、ミュージカルとか、奇術とかを見せて歓迎してくれた。生徒の演技の終わった後で、われわれの団からも何かやれということで、独唱の上手な横田さんがまず得意の歌を聞かせたりしたが、最後に団長さんどうぞと言われて、退けなくなり、団員の有志の人々と「幸せなら手をたたこう」を合唱した。そのときわれわれが肩をたたき合ったり、片足を踏んみ込んで「足を鳴らそう」をやっていると、客席の生徒の方からどっと笑い声が起こった。
 われわれの合唱が上手であったかどうか、しぐさが面白かったかどうかは問題でなく、その時に、その笑いの中に、われわれとこれからの中国を背負っていくエリート生徒たちと、言葉を越えて気持ちが通じ合えたことを感じたものである。
 中国人は元来、心にゆとりのあるユーモアに富んだ人々であるとは聞かされてはいるが、今回の旅行では言葉の都合やスケジュールの都合で中国の人々と気楽に、大笑いをし合うような機会はなかった。それでも行った先々で、どこでもわれわれを迎えてくれたときの人々の温かい”ほほえみ”はこれまた決して忘れることはあるまい。

大阪府工業協会機関誌「商工振興」一九七九年五月(訪中記念号

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